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間違いだらけの犯罪

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 という雰囲気が多かったりする。
 考えてみれば、世界の話にしても、日本国内にある話にしても、
「主人公が、地球外生物」
 という発想は、それほどあるわけではない。
「浦島太郎」
 のお話としては、主人公ではないが、ヒロインといってもいい、竜宮城の乙姫様というのが、
「海の中の世界」
 である、竜宮城の姫という設定で、浦島太郎が、
「竜宮城から、自分の世界に戻ってくると、すでに知っている人は誰もいなくなっていて、景色もまったく一変している」
 というのだ。
 だから、相対性理論という考え方から、
「竜宮城というのは、宇宙空間にあったのではないか?」
 ともいえる。
「海の底では、水の中なので、宇宙空間と同じで、空気のない世界だ」
 と考えれば、宇宙空間とも言えなくもない。
 ただし、
「竜宮城を、宇宙空間だ」
 という発想で考えれば、辻褄が合わないところがあるというものだ。
「今の人間だから、宇宙空間が、海と同じように空気がない」
 という発想が生まれたのだろうか?
 空気がないという発想があるから、海の中を宇宙空間に見立てて、相対性理論に結び付けたとすれば、100歩譲って、ありえなくもないだろう。
 何しろ。竹取物語が書かれたのが、
「平安時代初期だ」
 というではないか、今から。1200年以上も前の発想であり、
「地動説」
 というものが、言われた時代を考え、
「まだ500年くらい前だった」
 と思えば、竹取物語のように、
「かぐや姫が、月からやってきた姫だった」
 などという発想は、すごいものだといえるのではないだろうか?

                 埋葬

 墓地を横目に、いつものように歩いていると、前述のような光景を見ながら、最近は、
「この道も、そこまで怖いとは思わない」
 と感じながらも、怖さを感じずにいられるのは、怖い道を歩きながら、他のことを考えられるようになったからであろう。
 昔は、こんな恐怖の道を歩いているのに、
「考え事しながら歩くなんて、恐ろしくてできない」
 と思っていた。
 特に、墓地の近くを歩いている時など、
「余計なことを考えていて、自分の防御がおろそかになると、幽霊に乗り移られる」
 と思っていたほどで、真剣に、そんなことを信じていたのだ。
 特に、月明かりの時は怖く、
「ドラキュラが出てきて、血を吸う」
 あるいは、
「オオカミ男が、満月を見て、オオカミに変身する」
 などという妄想があった。
 しかし、冷静に考えると、
「ドラキュラが血を吸うのは、あくまでも、
「若い女性の血」
 というだけで、オオカミ男が出てきて、
「オオカミ男に変身する」
 と言ったところで、
「変身したからといって、何があるというのか?」
 ということであった。
 そもそも、オオカミ男というものが、
「満月の夜に変身するからといって、何をするのか?」
 ということを、詳しく知っているわけではない。
 そう思っていても、やはり、墓地の隣を歩くのは、気持ち悪いだけだった。
 幸いにも、墓地の近くに、竹林があるわけでもない。
 そもそも、竹取物語が、
「恐怖物語」
 というわけではないではないか。
 かぐや姫に、求婚した人たちが、その難問にこたえて、かぐや姫をゲットしようとしているだけで、実際には、
「達成できるはずもない難題を吹っかけて、相手をあきらめさせよう」
 という考えではなかったか。
 別に、青山には、今のところ、自分にとっての、
「かぐや姫」
 がいるわけではない。
 かといって、彼女がいなかったというわけでもなく、逆に、これくらいの年齢になると、
「結婚適齢期」
 というのも、通り過ぎていて、ある意味、結婚に対して、
「気分的な倦怠期に入っている」
 といってもいいのではないだろうか?
 気分的な倦怠期というと、そもそも、
「結婚適齢期」
 などというのが、存在するのか?
 というところが問題であり、昔であれば、男性なら、25歳くらいから、35くらいまでという雰囲気があったが、今はそんなこともないだろう。
 確かに、どこかの年齢で、
「結婚したい」
 という時期があるようだ。
 昔であれば、
「そう思った時に、結婚しないと」
 と思ったかもしれないが、この年になると、
「半分は、あきらめの境地もあるようで、結婚できないのであれば、このまま、しばらくは独身」
 と考える人が多かったのではないかと思うのだ。
 今の時代は、
「離婚というものが、そんなに恥ずかしいことではない」
 と言われるようになった、
 一つは、昔流行った言葉で、
「成田離婚」
 というのがあるが、これを考えると分かってくることもあるだろう。
 成田離婚とは、その名の通り、
「新婚旅行から帰ってきて、成田空港に降り立った時点で、離婚を決意する」
 というものであった。
 その頃は、すでに、昔のように、
「結婚するまで、お互いに貞操を守ろう」
 などと言ったことや、
「同棲しての結婚」
 などというのも、考えられるようなことではなかったのである。
 だが、そのうちに、結婚してからというもの、一緒に暮らしてみると、相手の見えなかったものが見えてきて、
「すぐに離婚」
 ということが多かった。
 ややこしいのは、
「同棲していた時には、分からなかったり、気づかなかったりすることがあったようで、新婚旅行では、気が付いた」
 ということである。
 それは、問題点が、
「一緒に暮らす」
 ということではなく、
「相手が、伴侶だ」
 という意識をしたことで、自分の中で今まで許せていたことが、許せなくなるのだろう。
 ということは、結婚する前であれば、自分の中にあった、
「相手を客観的に見ることができる精神的な余裕」
 というものがなくなってしまい、ガチな部分で相手を見てしまうと、
「今まで許せていたことが、自分の中での結界を破ってしまう」
 ということになるのであろう。
 だから、
「成田離婚」
 というものが流行り、そのうちに、
「離婚なんて、別に恥じることではない」
 ということになった。
「我慢できないことがあるのに、それを我慢して一緒にいる理由がどこにあるというのか?」
 ということであった。
 今の時代であれば、昔から、
「日本人の美徳」
 というようなことを言われていた、
「我慢」
 ということをする必要がなくなってきた。
 会社などでも、
「コンプライアンス違反」
 というものがあれば、社会問題になるくらいのもので、昔であれば、
「上司のいうことは絶対」
 と言われていた時代には、
「それは間違っている」
 と誰にでも思えることでも、
「我慢しないといけない」
 ということになり、
「泣き寝入りするしかない」
 ということであったのだ。
 それは、家庭を持ってしまうと、
「上司が嫌だから」
 といって、簡単に会社を辞めるわけにはいかない。
 もし、辞めてしまうと、
「家庭もあるのに、簡単に辞めてしまって、どうやって、養っていくというの?」
 と言われたものだ。
 そして、その後に、必ず、
「我慢が足りないのよ。そんなんじゃ、どこに行っても通用しないわよ」
 ということを言われるのだ。
作品名:間違いだらけの犯罪 作家名:森本晃次