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間違いだらけの犯罪

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「部下の考えていることは、少しでも自分と違えば、それは、否定の対象になる」
 ということで、
「人それぞれ違う」
 というのが当たり前なのだから、上司の要望に100%答えられる人などいるわけはない。
 上司も、そういう部下を望んでいるのだろうが、自分が分かっていないのだから、結局。自分の中で、
「考えが狭くなってきて、中には、自分の中にこもってしまう上司もいるだろう」
 ということだ。
「上司が引き籠れば、部下も引き籠る:
 そんな状態で、
「交わることのない平行線」
 というものが、さらに確立し、お互いが、自分のジレンマの中で、苦しむという、
「百害あって一利なし」
 ということになるのだろうが、どちらが歩み寄ればいいというのだろうか?
「相手の言っていることすべてが、皮肉に聞こえる」
 と若者は考えてしまう。
 そう思われるということは、言っている方としては、
「皮肉を言っている」
 とは思っていない。
 皮肉をいうことがどういうことなのかということを考えると、それは、
「自分の主張が正しい」
 と相手に思わせたいということではないだろうか?
 もし、それが、当たっていることであれば、相手の気持ちに刺さることなのかも知れないので、それはそれでいいのだろうが、しかし、それも度を越してしまうと、皮肉は、相手を追い詰めたり苦しめたりすることとなり、逆効果どころか、二人の間に、
「決定的な溝を生む」
 ということになることだろう。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
 と言われるが、まさにその通り、
「相手がせっかく、話を聞こうと思って、その態勢になっていたかも知れないところを、余計なことを言ってしまったり、皮肉が、皮肉を言っている人の、自己満足に見えてしまうと、相手が聞く耳を持たなくなる」
 というのも当たり前だということになるだろう。
 これは、子供同士の、
「いじめ問題」
 にも絡んでくることなのかも知れない。
 苛めというのも、昔の苛めと今の苛め。いや、
「苛め」
 という言葉が社会問題になり、
「引きこもり」
 ということが言われ出した頃のことであろう。
「昔の苛めは、もう少し、考え方が大人だった」
 という人がいる。
「ここでいう、大人って何なんだ?」
 と考える人が多いだろう、
 大人というのは、
「相手のことを思いやれる人のこと」
 という人がいたが、だったら、苛めなどする人間に、
「相手を思いやる気持ちがある」
 という理屈が分からない。
「相手を思いやる」
 というのは、相手の立場や、考えを尊重できる人だ」
 と言われれば、
「なるほど」
 と思うのだが、だったら、今の大人のように、
「自分の意見を押し通して、子供が自分の意見を言った時、否定してしまう」
 という考えはどういうことになるのだろうか?
 それこそ、
「一方通行」
 というもので、本人は、
「相手の意見を聞いているつもりだ」
 というかも知れない。
 確かに、
「全否定」
 というわけではなくて、認めてくれるところは認めてくれるのだが、子供の方としては、
「絶対に譲れない」
 というところを、否定されてしまうと、
「全否定されているようだ」
 と思ってしまうので。それが、結局、
「交わることのない平行線」
 というものを描いてしまうのであった。
 それが、ジレンマとなり、さらにトラウマとなり、お互いの精神を苛んでしまい、精神疾患や、ひき小森が増えてしまうことに繋がるのであった。
 その日は、ちょうど、上司から嫌味を言われた日だった。嫌味を言われるのは、その
日だけではなく、少なからず今までにも何度かあり、それを言われることで、胃が痛くなったりしていたものだ。
 実際には、
「パワハラなのではないか?」
 と思っていたが、自分の中で、
「上司が言っていることにも一理ある」
 という気持ちにもなっていたのだ。
 だから、上司には、逆らえないという気持ちにもなるのだが、そうなると、今度は、
「自分で自分を否定してしまっている」
 という自分を感じる。
 自分で自分を否定するということは、
「人にされて一番嫌なことを自分でしてしまっている」
 ということになり、理不尽な気持ちが、増幅するのは、自分にも原因があると思うと、
「上司だけに文句が言えるわけではない」
 と感じるのだ。
 そうなると、ジレンマに陥ってしまう。
 ただ、いくら相手が正しいのかも知れないが、百歩譲っても、許せないところがあるのだ」
 というのは、
「すべては、自分が正しい」
 ということで、まるで、まわりの人間を、
「自分が導かなければいけない」
 とでも思っているのか。それこそ、
「新興宗教の教祖」
 のように、上から目線で、しかも、相手にとっては、
「耳が痛い」
 と思うようなことを、言われれば、
「ひと時たりとも、話を聞きたくない」
 と思うのは当たり前ではないだろうか?
 正しいかも知れないとはいえ、自分が追い詰められたり、苦しめられなければいけないような話を、
「姿勢を正して聞かなければいけないのか?」
 ということである。
 いくら、相手に、
「それは、人それぞれで、感じ方も違えば、受け取り方も違う。だから、同じことを聞いても、感じ方が違うのだから、受け取る姿勢だって違って当たり前だ」
 と訴えても、相手は聞く耳を持たない。
 だからこそ、
「まるで、新興宗教の教祖のようだ」
 と表現するのだった。
 ただ、相手の言っていることも、間違っていないと思うことで、逆に相手に近づけないと思うのは、
「これほど辛いと思うこともないのかも知れない」
 これが会社の上司であっても、そうだし、自分の親であっても。そうだろう。親だからといって。なんでもかんでも、
「しつけ」
 だったり、
「教育」
 ということで片付けてしまうというのは、違うだろう。
 今はそのことで、
「親による、幼児虐待」
 というのが問題になっている。
 逆らうことのできない子供を、自分の傀儡にでも仕掛けて、それを身体に覚えこませるということでの発想は、それこそ、やっていることも、そのすべてが、
「虐待」
 ということになったとしても、それは、しょうがないことだといえるのではないだろうか?
 虐待ということを、親も子供も分かっていない状態で、進行していくと、子供はそれが当たり前だと思って育ち、自然とトラウマになってしまったことが、今度は、
「他人にしてもかまわない」
 ということになり、この問題は、どんどん大きくなることであろう。
 その日は、そんな感情をもって帰宅していた。
 彼は、名前を青山といい、年齢は35歳の、サラリーマンだった。
 会社に入社して、10年とちょっと、新人の頃は、少し、
「五月病」
 と呼ばれるようなことがあったが、その病気に関しても、数か月で克服し、研修期間も終えて就いた仕事が自分に合っていたのか、結構、
「やりがいのある仕事」
 と受け止め、真面目に仕事をしていた。
 もちろん、上司の小言のようなものも、ストレスに感じたりはしていたが、それ以上に、仕事が楽しいと思えるような状態だったことが幸いして、第一線での数年間は、
「三度の飯よりも楽しい」
作品名:間違いだらけの犯罪 作家名:森本晃次