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召された記憶

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 そして、それが分かってきたにも関わらず、最初に見た一点から、目が離せなくなってしまったのはどうしてであろうか?
「いや、こんなこと、前にもあったな」
 と感じた。
 それが、思い出してみると、数年前くらいのことだったような気がして。ただ、その時、本当であれば、高校生か大学生だったはずなのに、記憶に出てくるのは、
「少年の時の自分」
 だったのだ。
 というのも、少年の時の自分というのは、
「思い出したその時にも、過去を思い出している自分だったのではないか?」
 と考えると、この謎は一気に解決するのだ。
「前にも見たことがある」
 というデジャブ現象も、
「過去に見た時期と、自分の成長との辻褄が合わない」
 という理屈が合うということは、
「一つの理屈を解釈すれば、その理屈の辻褄が合う」
 と考えるのは、
「都合がいい考えすぎる」
 といえるおだろうか?
 ただ、それが子供の頃だったという理屈は分かる気がする。
 というのは、ちょうどあの頃、小学生だったが、学習塾に通っていたことがあったからだった。
 懐中電灯を照らしながら、怖くないように、本来であれば、近所迷惑なのだろうが、子供の頃はそんな人に気を遣うという意識が欠如していたのだった。
 それを思い出すと、
 やはり、元の記憶は、小学生の頃だったのかな?」
 と考えるが、さらに我に帰ると、
「そんなバカな」
 と、それまで考えていたことを、一気に押しつぶしてしまうような考えに至るのだった。
 というのも、
「本当にありえない」
 ということだったのだ。
 なぜかというと、向坂が、この近くに引っ越してきたのは、中学生になっていて、小学生の頃に受験をした学校に入学できてからだった。
 その学校というのは、男子校の中高一貫の学校であり、親が、ちょうどその頃、
「どこかの住宅地に家を新しく持って、一軒家暮らしをしたい」
 と考えていたのだった。
 その候補地を探していたが、向坂が入学した学校が、ちょうど、住宅地である。ここから近かったのだ。
 そもそも、その学校は、
「私立」
 であるが、いわゆる、
「中高一貫の学校というには、ちょうどいいくらいではなかったか」
 ちょうど、同じ学校にも、この街から通う友達も結構いて、
「それはよかった」
 と、家でも話したような覚えがあった。
 だから、
「この土地に引っ越してきたのは、小学生であるはずはない、向坂としても。この街に引っ越してきたのが、中学に入ってからのことだ」
 というのは、当然のごとく分かっていたことだろう。
 それを思うと。
「どうして、記憶が錯綜してしまったんだろう?」
 という思いと。
「記憶という意識が、二段階で飛んできたことが、何かの原因ではないだろうか?」
 と感じたところから始まっているように感じるのであった。
 見えてきた光景が、最初とは少し違ったのは、その時、
「何度か瞬きをしたからだった」
 瞬きをすれば、最初に感じた広さが、狭くなっているように感じるのだった。
 その理由というのは、
「目の焦点が狭まっていくことで、焦点を合わせようとする意識が、無意識なのか意識的にのことなのだろうか、明らかに視線が寄っているからだ」
 ということなのではないかと思うのだった。
 まっすぐに前を見ていて。その時に見えてきた光景が、明らかに見えていたものではないと感じると、
「つい瞬くをしてしまう」
 と思うのだ。
 だが、すぐに元に戻ると思っていて。そうでない場合は、何度となく。
「高速瞬き」
 というものをしてしまいのだ。
 だが、その時に見えた景色が、
「結局、前のところに戻ってきた」
 と感じると、その感覚は、明らかに
「一周回って、戻ってきた」
 ということになるのだった。
 元々一周まわってくるということを感じた時、
「戻ってきた場所は、絶対に最初であるはずがない」
 と思い込んでいたのだ。
 それがどういうことなのかというと、見たはずのその光景が、いかに自分の中で見たものかということを理解できていないのだ。
 だから、
「絶対に戻ってこないはず」
 と思いながらも、一周する間に。
「本当にそうなんだろうか?」
 と考えてしまうことで、自分の発想が、
「おかしくなってしまった」
 と感じる。
 今回のように、
「影がおかしい」
 と感じると、
 おかしいその理由が、今回のように、
「影だ」
 と分かっていると、今までの影に対する記憶を、すべて、引き出さなければ気が済まないくらいになっている。
 それは、
「意識はどこまでいっても、とどまるところを知らない」
 と感じてしまうと、そこにあるのは、
「目の前にある」
 というものに対して。影というハッキリした形で、意識が挑んできているのであれば、意識が、一周しようと、どうしようと、
「違うものは違う」
 という。ブレない考えになってしまうのだろう。
 そんなことを考えていると。
「何度も瞬き意をする」
 という、
「高速瞬き」
 というのは、
「自分の中で、何を抗っているのだろう?」
 と、感じてしまうからではないだろうか。
 おかしい理由というのを考えた時。
「その答えが求まるとすれば、それは、一度最初の段階まで戻って。もう一度やり直さなければいけない」
 という、いわゆる、
「タイムリープの理屈」
 でなければいけないということになるのではないだろうか?
 それを考えると、
「タイムリープ」
 と、
「タイムスリップ」
 の違いというものを、考えないわけにはいかないということであろう。
「タイムスリップ」
 というのは、昔から言われている、
「タイムトラベルもの」
 の一種といってもいいだろう。
「タイムマシン」
 であったり、
「ワームホール」
 と呼ばれるもので、時代を行き来するという発想といってもいいだろう。
 このどちらも、前者が、自分たちで作り上げた機械であり、後者が、
「時空を超える」
 という伝説的にいわれている、一種の、
「自然現象のようなもの」
 である。
「タイムリープ」
 というのは、
「過去に戻ることができるとすれば、どの時代のどこからやりなおしたい?」
 と言われるもので、タイムマシンが、機械や伝説的な自然現象によって、過去や未来に行くのに対し、こちらは、
「意識だけが、ずっと続いてきた今までの歴史をすべて持ったまま、昔の自分の中に乗り移る」
 というような現象をいうのだ。
 だから、
「意識を持ったまま、過去の自分の中に入るわけで、自分とすれば、そこから、今までに間違えた人生があれば、その記憶をすべて持ったまま過去に行くのだから、やり直せるのではないか?」
 という考えになるわけだが、果たして、そんなにうまくいくのだろうか?
 というのは、まず考えられることとして、
「本当に過去のすべてを思う出すことができるのか?」
 ということである。
「いついつのどこで待ち合わせをした時、結婚したいと思っていた相手から、別れの話を持ち出された」
 ということが分かっているとして、それが、何日のどこだったのかなんて、正直に覚えているものだろうか?
 確かに通り過ぎてしまったから、
作品名:召された記憶 作家名:森本晃次