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三つの関係性

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 くらいのものだった。
 子供の場合は、学校での話題も野球の話題。見ていないと、それこそ、話題に乗り遅れるという子供独自の世界が、
「プロ野球放映」
 によって、行われていたという時代であった。
 しかも、親も、
「子供が人気チームを好きだろう」
 ということで、野球道具を買ってもらうとしても、人気球団の選手と、
「おすろい」
 ということだったのだ。
 ほとんどの少年は、親が買ってくれた人気球団の選手を自然と好きになるという、
「悪しき構造」
 が生まれてくることで、
「子供は、大人の洗礼に遭う形で、人気チームのファンにさせられる」
 ということであった。
「じゃあ、父親は?」
 というと、実際には、別の味方で野球を見ていたりする。
 というのは、大人たちは、
「野球を野球として見ていない」
 といってもいいだろう。
 特に当時から、地元に球団があれば、球団が、取引先の会社に、
「年間予約席」
 ということで、取引の材料として、
「1企業、いくつ」
 という形で割り当てたりするだろう。
 球団を所有しているくらいの企業なのだから、地元では、
「そう簡単に逆らうということはできない」
 ということで、年間予約世紀の券を買わされるので、一部は、営業として使うこともあるだろうが、何しろ年間なので、すべてに営業を入れるということも難しい。
 そうなると、ほとんどを企業の社員で行けるということになり、中には、
「家族で行こう」
 という仲のいい家族もいるだろうが、奥さんや子供にも、
「野球が好きだ」
 と思っている人は、むしろ少ないかも知れない。
 というのも、
「いつもテレビで、ゴールデンタイム。見たいテレビがあっても、チャンネル権は、明らかに父親にあり、見たくもない野球を見せられている」
 という家庭も少なくないだろう。
 しかも、父親は、
「自分の傲慢さ」
 というものを分かっていないので、
「どうして、野球を好きになってくれないのだろう?」
 と思ったとしても、それは、当たり前のことであった。
 昔のように、まだまだテレビというと、
「一家に一台」
 という時代であれば、チャンネル争いの主役は、父親にあるのは当たり前だ。
 共稼ぎも珍しい時代で、まだ、父親がそれほど残業もしていなかった頃は、
「家族そろっての夕食」
 というのが当たり前で、
「一家団欒」
 というのが、ほのぼの家族の代表とも言われた。
 しかし、時代は進み、
「家族団欒」
 などという言葉が死後になっていった。
 父親は、残業残業で家に帰ってこなくなり、母親も仕事に出るようになる。子供は、学校でにいじめ問題などから、
「引きこもり」
 になってしまう。
 完全に、家庭崩壊というのが、現実味を帯びてきて、
「家庭内暴力」
「家庭内別居」
 などという言葉がどんどん出てくるようになったのだ。
 父親の威厳など、まったくなくなり、最近では、
「家事のできない男は、失格だ」
 とまで言われるようになり、
「奥さんが外で働いて、夫が、主夫として、家事をする」
 という家庭がどんどん増えている。
 時代の転換期といってもいいのだろうが、一気にそんな状態が進んでくると、誰も追い付けなくなり。
「逆に時代から取り残されないようにしないといけない」
 というようになってきたのだった。
 今度は、父親が、会社で、上司からのパワハラを受けたりして、引きこもるという人も増えてきた。
 昔と違うのは、
「結婚しない男女が増えてきた」
 ということであろう。
 結婚しても、どうせすぐに離婚するというのであれば、最初からしないという方がましだ。
 ということである。
 昔、急激に離婚する夫婦が増えてきた時、
「成田離婚」
 という言葉であったり、
「熟年離婚」
 という言葉も流行ったものだ。
「成田離婚」
 というのは、
「新婚旅行から帰ってきて、成田空港に到着した時点で、すでに離婚を決めていた」
 という、いわゆる、
「スピード離婚」
 というものを表した言葉であった。
 さらに、この頃から増えた言葉に、
「できちゃった婚」
 というものがあった。
 つまり、結婚したいかどうか別にして、
「子供ができた」
 ということで、結婚を余儀なくされたという夫婦のことである。
 ただ、
「俺の子供じゃないから、おろせ」
 と言われ、半ば強引に堕胎させられる人もいた。
 さらにひどくなると、誰にも言わずに黙っているうちに、堕胎できる時期を通り越してしまい。人知れず産み落とした子供を、
「コインロッカーなどに捨てる」
 という暴挙に出て、それを、
「コインロッカーベイビー」
 ということで、社会問題となったこともあった。
 ひどい人間は、どこまで行ってもひどいといってもいいだろうが、だからといって、
「子供が、自分たちの意志ではないということで生まれたとして、勝手に何かをしようと自分たちだけでたくらんだりした場合は、同情の余地もないくらいであるが、だからといって、責任を取れるかどうかも分からないのに、責任を取って結婚する」
 といって結婚しても、そのほとんどは、うまくいくはずがないといってもいいだろう。
 何といっても、
 男も女も、どちらにも、後ろめたさがあり、下手に相手に遠慮していると、今度は、子供に対して、愛情どころか、憎しみを感じる人もいるだろう。
「この子さえいなければ」
 と思う人も少なくはない。
 男の方としても、
「もっと遊びたかったのに、子供などができたことで、人生が台無しだ」
 などと思っている人もいることだろう。
 だが、それは自分が、
「避妊をしなかったことが、一番悪い」
 ということを最初は分かっていたのかも知れないが、責任という言葉を、一生背負っていくということに、次第に億劫に感じていると、
「家族全員を、憎たらしい」
 と考えるようになるだろう。
 母親の方としてもそうだ、
 明らかに、旦那の気持ちが、
「愛情もないのに、責任を取るというだけで一緒にいるだけだ」
 と感じると、
 そんな旦那に気を遣わなければいけないと思っている自分が次第に情けなくなってくる。
 母親は、子供に対しての母性本能というものがあることから、
「子供と向き合う」
 ということは、自分にしかできないことは分かっている。
 だか、そのうちに、
「この子にもあの男の血が流れている」
 と思うようになると、母性本能というものも、どんどん薄くなってくるということも分かるようになるのだった。
 だから、いつも一緒にいる子供に当たってしまう。父親に対しての恨みや怒りまでも、子供にぶつけるようになると、母親も我に返った時、
「私はどれほど汚い人間なのか?」
 ということが分かってくるというものであった。
 それを思うと、
「本当に、私は子供の母親なんだろうか?」
 と、母性本能というものが、怪しく感じられるようになるのだった。
 母性本能というものを、いかに自分に納得させるのか?
 そんなことを考えると、
「家族を背負っているのは、自分なのではないか?」
作品名:三つの関係性 作家名:森本晃次