三つの関係性
自分が、そんな思いを抱かないほどに成功している未来を思い描くことはできなかった。
というのも、
「理想通りの人生を歩んでいるとすれば、それは、子供の頃に、もう少し未来に対しての希望があるだろう」
と思ったからだ。
「いくら、子供の頃に未来に期待を抱いても、それはしょうがないというように、勝手な思い込みをしないようにしているとしても、ここまで、子供の頃から卑屈になっているわけはない」
と感じていたのだった。
子供というのは、大人になってから、
「どうせ、子供の頃に思ったことは、忘れてしまうんだ」
というのを、親を見ていて感じるからだ。
親を見ていると、
「子供の頃に、どんな大人になっているか?」
ということを、思い描いていて、それが、想像通りの大人になっているだけでも、子供に対して、少なくともヒステリックにはなっていないだろう。
子供に対してヒステリックになっているというのは、
「どうせ自分の子供だから、自分が思っているのと同じようなことになるわけなどない」
と分かっているからに違いない。
だから、
「子供の頃に、感じたことを、いとも簡単に忘れてしまって、親の立場からだけで、見ていこうとするのだろう」
その方が、
「どれだけ楽化?」
というもので、
「大人に対して子供の分際で」
などと口にするわけはない。
そう、つかさは、親のそんな言葉でよく叱られていた。
「子供の分際って一体何なんだ?」
ということである。
子供心に、
「子供の分際:
という言葉が、
「いかに子供を傷つけるのか?」
ということを分かっているつもりだ。
それを思うと、
「大人というものが、子供に対してどのような教育をすればいいのか、そんなことも分からないのが、自分の親だと思うと、世間の親のほとんどは、同じことを思っていて、今教育問題とされていることのほとんどは、このあたりから、発端としてきているものではないのだろうか?」
と感じるのだった。
それを思うと、
「タイムリープで、まずは、自分が親になった時のことを、子供の頃に見ておきたい」
と感じるのは、無理もないことであった。
ただ、そのタイムリープを一度したとして、
「すぐに子供時代に戻れる」
という確証があってのことであった。
逆に、タイムリープというのは、そういうことでないと、してはいけないのだと感じたのであった。
テレビ時代
つかさは、中学生の頃、趣味で少し小説を書いていた。本を読むのが好きだったわけでも、作文が得意だったわけでもないのだが、学校である作家のミステリーが人気だったことで、
「その話題に入ってこれないと、仲間外れにされる」
という意識があったのだ。
それは、最近のミステリーというのではなく、時代背景とすれば、戦前戦後にかけての、いわゆる、
「探偵小説」
というものであった。
大体、20年に一度くらい、ブームになるというもので、爆発的なブームからという意味であれば、3回目くらいであろうか。
作者もすでに亡くなっているのだが、最初のブームの時、いくつかの作品が映画化されたのだが、作家さんも、
「カメオ出演」
ということで、ちょい役で、出ているようだった。
当時の作家の人は、自分の作品が映画化されたりすれば、自分も、カメオ出演するというのが、実際に流行っていたという。
今の時代にもカメオ出演はあるようだが、
「実写版」
というよりも、アニメ作品が多くなった今となっては、なかなか、希少価値になったようだ。
特に、数年前まで流行った、
「世界的なパンデミック」
という状態によって、実写撮影が、なかなかうまくいかない時代だったことで、
「アニメ作品」
であったり、
「3?作品」
最近では、
「AI画像」
というのが流行っているので、
「実際の俳優が演技をする」
ということも、どんどん少なくなってきたといってもいいだろう。
実際に、俳優が演技をするシーンが減ってきたというのも、
「原作にマンガというものが多くなってきた」
というのが流行してきたからだった。
特に、最近の民放で製作されるドラマや、映画というと、
「〇〇万部売り上げを更新した、人気漫画」
などという触れ込みが多かったりする。
実際に、
「活字離れ」
というのが、深刻化してきたからなのか、それとも、
「ネットカフェなどでの、マンガを読む人が増えてきた」
ということなのか、どちらにしても、主流は、小説から、マンガに移りつつあった。
そもそも、マンガという文化は、日本で大きく発展したともいわれる。どこかの政治家が、
「政治そっちのけで、秋葉原で、マンガと戯れるというような、庶民的な政治家というのを演出していたことがあった」
しかし、実際には、物価に関しては、まったくの無知だったという、そんな政治家に、アニメファンは、
「あんなやつに宣伝してほしくはない」
という目を向けていたことがあった。
それはさておき。
「マンガが日本の文化であるということは、紛れもない事実だが、中には昔からの、小説のファンだ」
という人も少なからずいる。
そんな人たちは、
「活字文化が減っていくのを、寂しい思いをしてみているのかも知れない」
しかも、最近のテレビ界は、
「普通の民放を面白くない」
といって、見ない人も多い。
かといって、受信料というものを、
「何としてでも取ろう」
としている連中にとっては、決して追い風ではない。
逆に、
「テレビなんかない方がいい」
といって、
「そうすれば、受信料をどうこう言われることもない」
ということで、逃れることもできるというものだ。
何も、
「受信料を払うのがもったいない」
という人ばかりではないはずだ。
実際に払っている人も数多くいて、だからといって、払わない人に文句をいうという感じではない。
払わない人が正しいとまでは思わないが、
「払いたくないのには、それなりの理由がある」
ということで、一定の評価をしているのであった。
払わない連中も、
「金がないから」
という理由ではなく、理不尽な取り立てに怒っているのだ。
「受信料を取るなら取るだけの、責任と義務を果たしているのか?」
ということになれば、
「そんなことはない」
といえるのではないだろうか?
しかも、最近では、テレビの形態が変わってきている。
その顕著な例が、
「ゴールデンタイムにおける、野球番組ではないだろうか?」
元々、ゴールデンタイムというと、昔であれば、子供向けのアニメ番組か、後半の1時間というと、時代劇というパターンが多かった。
ただ、それも、野球のオフシーズンということであった。
というのは、野球シーズンであれば、ゴールデンタイムと言われる、
「午後7時から、9時までの2時間は、どこかの局で野球放送」
というのが、当然と言われていた。
それも、地元の球団を放映するというのであればまだ分かるが、放送されるのは、人気リーグの人気チームばかりであり、そのせいもあってか、野球ファンというと、
「子供かサラリーマン」