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三つの関係性

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 しかし、まわりの親などは、そのことをねぎらってくれるようなことはない。考えてみれば、親たちだって、同じ道をくぐってきているはずだ。
 だから、
「自分たちにできたんだから、あなたたちだってできるでしょう」
 と言いたげなことも、すべてを分かったうえで、そんな攻撃めいたことをするのだと思うと、余計に、
「親の取る態度が、あからさまに感じられて、いらだちの要因となる」
 と思うと、親に対しても、不信感しかもたないのだ。
 というのは、
「一声でいいから、ねぎらってくれれば、気持ちが全然違うのに」
 と思うのだ。
 ということは、
「親だって、同じことを感じたはずではないか」
 つまりは、
「一言くらいのねぎらいがほしい」
 と思っていたはずなのに、その時、きっと、
「この子には、自分と同じ思いをさせたくない」
 と思ったのではないか?
 と感じるのだ。
 本来の苦しみの元凶である、目の前の子供に対して感じるというのは、おかしなことかも知れないが、親を見ていると、そう感じるのも、無理もないことではないだろうか?
 それを考えると、
「どうして、そう感じたはずのことを、親は忘れてしまうのだろうか?」
 ということであった。
 ただ、この思いは、自分が子供の頃に感じたことを思い出させるのだった。
 というのは。
 子供の頃に、よく親から叱られていた。
 というのも、どうやら、他の子供と自分を比較して、劣っていることを叱っていることが多かったのだ。
「〇〇ちゃんは、ちゃんといい成績を取っているのに、どうしてそれくらいの成績しか取れないの?」
 ということを、小学生に1年生くらいで言われても、子供心に、
「何を言ってるんだ?」
 としか思えない。
 しかし、よく考えてみると、
「大人の理屈」
 というものが、理屈としては分からないが、子供心に、
「理不尽なこと」
 という認識だけはあり。それが、3年生、4年生になってまで同じような言われ方をしていると、
「少なくとも、自分の子供には、こんな??り方をしないようにしよう」
 と思ったのだった。
 しかし、よくよく考えてみると、
「親世代の方が、同じような言われ方はもっとしていたはずだ」
 と感じるのだった。
 それなのに、
「どうして親は、そんなことをまったく感じなかったかのように、子供にきつくあたるんだろう?」
 と感じるのだった。
「親は、子供の頃に同じようなことを感じなかったのだろうか?」
 とも感じたが、それよりも、
「大人になって、大人の立場になると、その瞬間、子供時代だったことを忘れてしまうのではないか?」
 とも感じた。
 もっと考えれば、
「大人になって、考えることというと、その最優先として、損得勘定というものを考えるようになるのではないか?」
 と感じるのだが、そう思と、今度思いつくこととして、
「親が子供の教育やしつけをするのは当たり前のことであり、義務だとすれば、いかに、簡単に教育すればいいか?」
 と考えると、
「頭ごなしに押さえつけるのが一番だ」
 と考えるのではないだろうか?
 一番安直で、最初に思いつくこと、そして、それ以上考えても、結局、一周回って、同じところにしか着地しないということになると考えると、
「最初に思いついたことが、それ以上でも、それ以下でもない」
 という自分の中での、教育方針ということになり、結局、
「押さえつける」
 ということが教育だと思いこむと、
「ああ、親が行っていた教育も、あながち間違っていないんだ」
 と思い込むのかも知れない。
 だから、いくら子供の頃に感じたことがあったとしても、それは、勝手な思い込みでしかなく、そう思うと、教育方針というものが、どのようなものなのかが分かるというものであった。
 しかも、
「その時に感じた子供心を忘れてしまったのか?」
 と感じるかも知れないが、
「決して子供の頃のことを忘れたわけではないが、それも踏まえたところで、出した答えだ」
 ということを感じると、
「私は、大人になってから出した答えに、間違いはない」
 と思うに違いない。
 そんな大人になった、そして親になった人間の気持ちは、その時の親にしか分かるわけはない。
 子育てが終わると、そんな自分が、子供の頃に感じた気持ちを踏みにじってまで、考えを変えたかということすら、忘れてしまっているだろう。
 そう、人間は、
「年を取るにしたがって、どんどん忘れていくんだ」
 ということを感じる。
 人間は、20代をピークに、それまでは、一年一年が長かったはずなのに、年を取るごとに、
「一年一年があっという間に過ぎていく」
 と思うようになり、
「十年を思い返すと、どんどん短く感じるようになる」
 ということであった、
 だから、
「20代よりも30代というと、どんどん短くなっていき、40代を過ぎると、長さの間隔を忘れてくらいになる」
 と言われるようになるのだ。
 それを、そこまで年を取ったことのない人は、
「不思議でしょうがない」
 と思うのだ。
 これは、
「自分が親になったら、子供には、同じような思いをさせたくない」
 という感覚を持ったはずなのに、なぜ、大人になると、
「子供の頃に感じたことを忘れてしまったかのようになるのか?」
 という感覚と似ているのかも知れない。
 子供が大人になる。そして、大人になると、どんどん年を取っていき、年を取ると、どうなっていくのか?
 ということを、精神的に考えようとすると、結局、
「その年齢にならないと分かるはずはない」
 ということで、それこそ、できるわけもない、
「タイムリープというもので、未来に行く」
 ということになってくるのである。
 もし、子供の頃に、
「タイムリープ」
 や、
「タイムスリップ」
 のようなことを、いくらでもできるとすれば、
「まず何をしたいか?」
 と聞かれたとすれば、つかさは、
「タイムリープで未来に行って、自分が親になったところに、憑依したい」
 と思うことだろう。
 それは、大人になった自分が、子供の頃に感じた。
「自分の子供には、自分と同じ思いをさせたくない」
 と感じたことをどう感じるのかということを、自分の中で感じてみたいということに繋がってくるのであった。
 それができるとすれば、どんどん見てみたいことが広がるだろう。
 30代、40代の節目に行って、
「本当に、あっという間の、30代だったり、20代だったりしたのだろうか?」
 ということを感じたい。
 もっといえば、
「40代になったところで、20代、30代とそれぞれを思い出して、どっちが、長かったのかということを感じてみたいと思うのか?」
 というのを感じてみたいと感じることであろう。
「きっと、自分が思い浮かべたことと、まったく違った心境になっていることだろう」
 というのは、
「あの時にこうすればよかった:
 いや、
「それは、別の時だったかも知れない」
 と、様々な時を思い起こしては、
「どこで間違ったのか?」
 ということを、必死で考えている自分がいるのだろうと思うのだった。
作品名:三つの関係性 作家名:森本晃次