三つの関係性
メモの正体
だが、それが本当に殺人予告メモだったのだろうか?
それを考えた時、つかさは、一つの言葉が頭をよぎった気がした。
というのは、
「木を隠すなら、森の中」
という言葉である。
これは、
「探偵小説」
などでもよく言われることであり、その発想を考えると、
「ウソを隠そうと壽時のテクニックであり、つまりは、たくさんの別の種類の中に、保護色のようなものでも使って隠してしまえば、まさか、そこにあるということを考えないだろうから、一番いい隠し場所だ」
ということになるのだ。
また、
「一番いい隠し場所」
としては、
「探偵小説」
などでいけば、
「一度警察が捜索したところは、基本的にはまた探すことはない」
ということで、
「理屈を逆手に取る」
という考え方で、敢えて、その場所に隠すということであった。
または、
「隠さない」
という方法もある。
それは、前述のように、つかさが、いちかを表して考えたという、
「石ころのような存在」
というものであった。
「目の前にあったとしても、それを誰も分かるわけではない」
つまり、誰かがそこにはいるのに、誰にも気づかれないという不可思議な性質のものである。
その性質というのは、
「彼女の中にある性格」
からきているものだとすれば、その、
「石ころのような存在の正体」
というものを、
「つかさが、一番知っているのではないか?」
と自分で、感じていたのだった。
つかさは、これでも、
「人のことを分かっている」
と思っていた。
「それが自分の長所である」
と思っていが、それ自体が実は、
「短所」
というものであり、そのことを失念していたということを悪いのだとは、思っていなかった。
失念というのは、
「分かっていないことを、意識していなかった」
ということで、本来なら、
「そんなの当たり前じゃないか?」
と思われることであるが、結果として表に出てくると、言葉としては、
「失念していた」
ということで、
「あまりいい意味に使われることはない」
といってもいいのかも知れない。
そんなことを考えていると、
「いちかというのは、私の知っていることを、相手も知っていて、もし、お互いに知らないことがあれば、それは、失念という言葉で片付けられるという仲なのではないか?」
と考えるのであった。
いちかの正体というのを、どのように考えればいいのかを少し考えてしまうのだが、妄想が妄想を膨らませて、
「限りなく無限に近い」
というところまで伸ばすことができるとするのであれば、
「以前母親が言っていた。父親の外で作った子供」
ということになる。
ということであった。
もちろん、そんなことはないだろうし、そんなことを考えてしまうのは、モラルとして、許されないことなのかも知れない。
しかしつかさには、
「どうせ、小説の中のフィクションだ」
という思いがあった。
「そうか、だから私は、フィクションを書きたいんだ」
と感じた。
フィクションであれば、何をどれだけ書いたとしても、許されるというもので、
「勝手な妄想」
ではあるが、
「限りなく無限に近い妄想」
というものに思いを馳せることができるからだ。
「ノンフィクション」
というものは、あくまでも、
「史実や事実に対して忠実である」
ということから、
「間違っても、ウソを書いてはいけない」
ということから、まずは、事実や史実、史実であれば、時代考証まで、しっかりしておかなければならない。
その場合の史実というのは、
「歴史小説」
というものであり、
「伝記」
であったり、
「史実という意味での、事件や戦記録などの、ドキュメント」
といってもいいだろう。
そういう意味で、
「ノンフィクション」
というのは、減算法であり、
「調べ上げた100に値するものから、いかに、絞って、スリムにしていくか?」
ということになるのだ。
逆に、
「フィクション」
というのは、ノンフィクションとは逆で、加算法というものである。
それを考えると、
「ノンフィクションというのは、限りなくゼロに近づけるものである」
といえ、
「フィクションは、限りなく無限に近づけていく」
というものであろう。
ただし、二つとも、
「限りなく何かに近い」
ということであり、あくまでも、その、
「何か」
というものに、近づくということであり、達するということではないというのが、その結論ということになるのだろう。
問題は、自分が妄想した、
「いちかが、自分の妹なのか姉なのか?」
という、
「腹違いの姉妹だ」
ということを小説の中で書くかということであった、
そこで生きてくるのが、例の、
「殺人予告メモ」
というものであり、あそこに書かれていた対になっているものとして、
「つかさといちか」
というこの対に関しては、実は、
「腹違いの姉妹」
ということだったのだろう。
ただ、この際、
「腹違い」
ということは関係ない。
一縷の望みもないと思われるであろう、二人が姉妹だという、偶然の産物以外の何物でもない事実は、それこそ、
「よく言われている言葉通りだった」
といってもいいだろう。
それは、
「事実は小説より奇なり」
というものであり、
「そこまで、難しいことだったのかも知れない」
ということであった。
「事実というものが、何に対しても優先する」
と考えているのは、つかさだけではあるまい。
というのは、
「他の人にも言えることで、そもそも、これが基本として考えないと、根本的に何かを考えようとする時、これ以上の問題ではないのだ」
ということになる。
そんな、
「事実なのか、妄想なのか、自分でも分からない世界」
というものの中で、妄想というものが、
「限りなく無限に近い」
というもので、事実というものが、
「限りなくゼロに近い」
というものだと考えると、前述の、
「ノンフィクション」
そして、
「フィクション」
というものに対しての発想だということを考えると、
「私が、考えているのが、妄想だとすると、本当に無限に近いところまで行っているのかも知れないな」
と、勝手に思うのだ、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
という言葉があるが、これは、今回の、つかさが感じている妄想に対しての、
「一種の戒め」
のようなものではないかと感じるのだった。
「妄想が悪い」
というわけではないのだが、
「妄想というものを考え始めると、それ以上でも、それ以下でもないという発想が、どのように生まれてくるのか?」
ということで、
「限りなく無限に近い妄想」
というのは、
「どこまで行っても、妄想でしかない」
ということになり、結果とすれば、
「何が限りなく近いものを証明してくれるのか?」
という考えに結びついてくるような気がするのだ。
そんなことを考えていると、
「父親が残した、殺人予告メモに書かれている自分たちは確かに、対であった」
ということから、
「対が書かれているということの真実の証明であった」