三つの関係性
そうなると、
「いや、そんな精神疾患になったり、苦しむようになった人を作った世の中が悪い」
という人も出てくるであろう。
確かに、世の中が悪いから、そんな悲劇が起こるともいえるのかも知れないが、じゃあ、
「世の中が悪い」
ということで、
「すべてが許される」
のだろうか?
ということになるのだ。
要するに、どこまで行っても、いったん世の中が悪いということになってしまうと、その後に落ち着く結論は、一周回ってくるだけではないだろうか?
それを考えると、
「まるで、わらしべ長者のような話」
ということで、こちらは、
「マイナスの例」
なのではないだろうか?
といえるのである。
ただ、一つ言えることは、
「この時に、奥さんをいかに洗脳したか?」
ということであるが、そのやり方として、
「相手のことを全否定する」
ということではないだろうか?
人から全否定されてしまうと、結果として、
「何を言っても、全部ブーメランになって自分に帰ってくる」
ということを感じてしまい、相手に対して、逆らうことができなくなり、しかも、一度全否定した相手の言葉を受け入れてしまうと、
「全否定した自分に、拒否権のようなものはなくなってしまった」
という風に思い込んでしまうに違いない。
それを思うと、テレビのニュースで、
「ママ友の過去」
であったり、
「実行犯の過去などが言われていたが、どうしても、見ている方は、ママ友が悪いと思わされてしまう」
というのである。
若干の番組側からのひいき目的な番組製作もあり、すべてが、
「ママ友が悪い」
というシナリオになっているのだが、果たしてそうなのだろうか?
確かに、そう思ってしまうのは仕方がないが、それをどう立証するというのか、誰も検証しているわけではないので、断定しているようなニュアンスの番組に、視聴者が、洗脳されるということは若干あるだろう。
「見ていて。100人が、90人まで、その通りだと思うと、ほぼ皆がそうだと思ってしまう。それこそが洗脳であり、番組製作というのが、どういう意志に基づいているのか?」
ということも分かってくるというものだ。
「確かに、全否定はいけないが。だからといって、全否定した人がすべて悪いとも限らない」
「一番怖いのは、すべての責任を一人に押し付けて、その真相を見ようとしないということは、一番恐ろしいのだ」
ということであった。
「全否定をする」
ということであれば、父親もそうだったかも知れない。
「タバコをばったり辞めた」
ということに関しては、リスペクトをしている父親であるが、実際には、
「尊敬どころか、今でも憎んでいる」
といってもいい。
「今までに、何度殺してやろうと思ったか」
というと大げさかも知れないが、正直、
「この世からいなくなってくれれば、どれほどいいか?」
と思っていたというのも、無理もないことであった。
その一番の理由は、
「すべてに関して、全否定をする」
というのだ。
自分の意見をハッキリ言おうと思っても、ほとんど何もしゃべらせてくれない。そのうえで、
「すべてお前が悪いんだ」
といって、理由らしいことをしゃべっているだけだ。それこそ、
「口から出まかせにしか聞こえない」
なぜなら、
「全否定されているので、何を言っても無駄であり、全否定というものがどういうことなのか?」
それを考えると、思い浮かんだことが、一周まわって、また同じところに戻ってくるのだ。
大人になって、
「どうして、父親に逆らえなかったのか?」
ということを考えると、その理由は、
「全否定されるということが、一周まわるということであると気づくと、父親が、子供の頃に感じた思いが、忘れてしまったかのようになるのは、一周まわってくるからだ」
ということに気が付いたのだ。
「一周まわって、もう一度同じ位置に戻ってきたとしても、それが、同じ着地点であるかどうかは、決まっていないのだ」
それは、
「慣性の法則」
を思わせるものであって、
「例えば動いている電車の中で飛び上がったとすれば、電車の中だけに影響する空気によって、飛び上がったその場に着地する」
というのが、その理屈であった。
確かに、同じ場所に戻ってくるのだが、あくまでも、それは、表の法則に逆らっているということで、不可思議なことの中に含まれるのではないだろうか?
それを思うと、
「一周まわって、同じところに戻ってくるというのは、同じ場所というその場所のことであって、時間も経っているのだし、最初の場所とは違うところである」
ということだ。
慣性の法則も、そういう意味で、
「まったく同じ場所ではない」
という理屈から、
「同じに見える場所に降りてくるということで、おかしいなりに、それなりの理屈があるのかも知れない」
それを考えると、
「全否定されると、理屈で分かろうとしても、無理な場所を一度見てきた」
と思えた。
それが、
「一周回って降り立った場所」
ということであり、結局、同じ場所に降り立つように、誘導したとしても、そこは、一周まわった、裏の世界であるということから、
「全否定という言葉は、いかに、自分を正当化しようとして、すべてを一つに押し込めて、相手をいかに悪者にするか?」
ということに掛かっているのではないだろうか?
全否定という、
「負のスパイラル」
に嵌ってしまうと、
「絶えず何かを考えている」
ということになる。
だから、
「一周まわって」
ということになるのだろうが、何かを考えていると、今度はそこから、自分が、責められているような、被害妄想に陥るのだ。
それが、精神疾患となり、いろいろな障害が起こってくるのだろうが、
「父親は、そんな、負のスパイラルから、精神疾患に陥ったのではないだろうか?」
母親に暴力をふるうようになった。それは、つかさが、高校時代の頃から、感じるようになったのであって、
「高校時代というと、小説を書き始めた頃だったような気がする」
と感じた。
「そうだ、小説を書けるようになったきっかけが、父親の暴力を見たからだったような気がする」
ということを思い出した。
小説を書くということは、結構大変なことで、最初から書けていたわけではなかったのだ。
というのは、最初の頃は、書きたいと思っても、なかなか文章が進まなかったり、考えながら書いていると、考えが頭をぐるぐるまわって、結局、結論が分からなくなってしまって、書こうと思っていたことすら忘れてしまう。
「そういう時は、プロットを書くものさ」
と教えられたので、
「そのプロットって何なんですか?」
と聞くと、
「プロットというのは、小説における設計図のようなもので、基本的には、それを作ってから本文を書き始めるものです」
と教えられた。
「設計図というと?」
と聞いてみると、