三つの関係性
と聞こうと思ったが、そもそも、このメモのどこに
「対になっている」
と書かれているわけではないので、いちかがどう感じているのか分からない。
つかさにとって、自分の勝手な思い込みを、
「相手に押し付けてしまう」
というところがあるということを、今に始まったわけではなく、気にしていたのであった。
つかさにとって、
「私には、勝手な思い込みをする時と、都合よく考えてしまう時という二面性があるが、いちかにはどうなんだろう?」
と感じた。
そもそも、この、
「勝手な思い込み」
と、
「都合よく考える」
ということが、それぞれに対をなしているのかも知れないと思うようになると、自分が、普段から、
「対というものを意識していたのかも知れない」
と感じるのであった。
ただ、
「対」
というものには、
「つがい」
という考え方もあり、夫婦であったり、恋人であったり、中には、不倫や浮気ということもあるだろう、
男性同士、女性同士であっても、
「異常性癖」
ということも考えられる。
「対」
というものには、たくさんの考え方があるということであろう。
全否定の罠
対になるというものは、世の中にはたくさんあることだろう、
漠然とした、性格の一致不一致などによりいわれる、
「人間関係」
というものの対であったり、
「人間関係」
というようなものではなく、
「実質的な血のつながりなどという意味で、
「親子や兄弟」
と呼ばれるものも、
「対」
ということになるだろう。
もちろん、前述の、
「恋人であったり、夫婦というような」
つがいという関係も、対といってもいいであろう。
実際の人間関係として、友達と呼ばれるものにも、たくさんある。
ただの因果関係だけでつながっているクラスメイトのようなものであったり、趣味趣向でつながっている、
「精神的な友達」
というものであったり、
「その繋がりが、実は親友よりも、深い関係といってもいいかも知れない」
要するに、
「一生懸命に生きているという証拠としての、趣味趣向」
ということであれば、そのつながりが一番強いといっても、過言ではないだろう。
そういう意味では、
「親友」
といっても、
「絶対的に深い仲」
というわけではないということで、基本的には、親友が一番縁が強いといってもいいのだろうが、
「趣味趣向」
という結びつきで、時と場合によって、そのつながりが深くなるというのも、当然のことではないだろうか。
だから、考え方ではあるが、
「親友」
というのと、
「趣味友」
というのとでは、それぞれに、深いつながりという時があるということであろう、
だから、親友ではない相手と、親友よりも深い仲になってしまったりした場合は、実は危険だということもあるだろう。
世間でよくある、
「マインドコントロール」
すなわち、
「洗脳」
と呼ばれるものが、実際にあるということで、世間で問題になっている、社会問題だったり、事件だったりが、蔓延ることになるのだ。
一度、
「ママ友」
という名目で、
「自分の言いなりになるように仕向けた母親が、その女の言いなりになった挙句、自分の子供を餓死させた」
などという、
「あってはならない事件」
というものがあったではないか。
洗脳であったり、
「マインドコントロール」
というのは、犯罪の中でも、なかなか立証がしずらかったりする問題なので、結構裁判も難しかったり、それによって長引いたりする。
それらの洗脳などというのが、
「新興宗教」
によるものだったりすると、その被害者というのは、少なくないだろう、
複数の人が、宗教に嵌ってしまい、家族が貯めた金を奥さんが、つぎ込んでしまったりして、金銭だけの問題ではなく、
「家庭崩壊」
という重大事件を引き起こすことになる。
それだけ大きな社会問題であり、しかも、数多くの被害者を抱え込むことになるので、
「被害者団体」
というものが設立され、
「集団訴訟」
というものに発展するのが、常であろう。
宗教団体であれば、一人だけではなく、教祖のまわりに、たくさんの幹部がいて、幹部が、裏で動いたりすることで、
「知らず知らずのうちに騙されていた」
ということも多かったりする。
もちろん、すべての宗教団体がそうだとは言わない。中には、ちゃんとした。
「勉強会」
のようなものを開いて、真面目な活動をしているところもあるのだ。
しかし、日本には、
「宗教の自由」
というものが認められているので、いくら、悪徳宗教団体を摘発し、それらを潰すことができたとしても、芋ずる式にできないのは、どうしても、この、
「宗教の自由」
という考え方があるからに相違ないだろう。
ただ、洗脳ということに対しては、宗教以外の場合でいえば、
「これほど卑屈な犯罪もない」
といえるのではないだろうか?
まず、相手を自分の言いなりになるように相手を信じさせ、そして、自分の目的を果たすためだけに、相手にいいようにいうのだ。
それ以外は、適当にいうことで、お茶を濁しているのかも知れないが、その話の方が、相手にとっては、切羽詰まったような大切な話なのかも知れない。
それなのに、適当なことを言ってしまえば、相手はそれをうのみにする。
洗脳する側は、自分の目的に関係のあることであれば、失敗しないようにと、細かく指示を出すだろうが、
「どうでもいい」
と思うようなことは、何も言わないし、指示など出すわけもない。
もっとも、指示を出したとしても、それはいい加減なことになるので、余計なことは普通ならしないだろう。
それでも、相手が信じ込んでいるので、
「相手にまだ利用価値がある」
と思うと、指示を出すというようなポーズをするだろう。
しかし、その指示が、本末転倒であったり、まったくのお門違いだったりして、それが社会問題を引き起こすということも、往々にしてあるというものだ。
前述の、
「ママ友の洗脳による、子供の餓死事件」
という悲惨なことになったのは、
「洗脳する方おいい加減」
さらには、信じている方も、おかしいと思ったのか思わなかったのか、正直、あとからであれば、何とでもいえる。
ママ友の方は、弁解の余地がないほどの犯罪者であるが、この場合の母親に、罪はないわけではないのだが、
「その罪状がどれほどのものであるか?」
ということである。
ママ友の方は、
「100人が100人まで、死刑になってもいい」
と思っているだろう。
だが、実行犯の方は、
「洗脳されていたので仕方がない」
といえるだろうか?
この問題は、実に根が深いといえるであろう。
ただ、この問題は、ある意味、極端な例なので、分かりにくいかも知れないが、ママ友にしても、実行犯にしても、結局、どちらが悪いという問題ではなく、確かに、洗脳して、相手を苦しめて、精神的に追い込むということを、悪意を持ってしているのが分かっている。
そうなると、
「じゃあ、実行犯は、
「操られていたということで、片付けられるのか?」
ということである。