三つの関係性
別になれなれしくは感じなかったし、むしろ、初めて呼ばれたことの方が違和感を感じるほどだったのだ。
「以前にも呼ばれたことがあったような気がするんだけどな」
という、まるで、
「デジャブ現象のようではないか?」
と、それを感じると、
「私には、今までに何度かデジャブというのを感じたことがあったが、今回のデジャブは、今までと少し違うような気がする」
と感じた。
今までは、
「夢の中で見たこと」
と同じ感覚だと思っていたのだが、今回のいちかに言われたのは、
「夢の中ではなかったような気がする」
ということであった。
しかも、
「いちかが、夢の中に出てきた」
という意識すら曖昧な気がするのだ、
それを思えば、
「そもそも、デジャブと夢の関係というものが、怪しい」
と感じるようになっていた。
そもそも、その二つが関係しているということを感じたことに、何らかの根拠のようなものがあったのだろうか?
それを考えると、
「デジャブというものと、夢の、どちらが、より幻想的な発想になるのだろうか?」
と感じるのだった。
いちかが、見せてくれたメモは、クラスの中の、つかさも把握している一種の派閥のメンバーであった。
それも、対立しているメンバーと思しき人が、そこには書かれていたのだった。
それを見るまで、
「この人とこの人が、対立していたっけ?」
と感じたであろう人だったはずなのに、それを見ているうちに、違和感を感じなくなってきたのは、
「やはり、慣れというものが意識されるからではないか?」
と感じられたのであった。
いちかが相談してきたのが、なぜ、つかさだったのか?
それを考えると、いくつか考えられる、
「いちかには、腹を割って相談できる人がいない」
ということ。
これは、可能性としては大きいだろう、
それを思った時、つかさも、自分の中で、
「腹を割って相談できる相手、いたっけ?」
と思うと、いちかに感じるよりも、自分の方が明らかに、
「誰もいない」
と思うるところが、間違いないと思うと、いちかを見ていて、
「反面教師」
であるかのように思えたのだ。
いちかも、
「私のことを、反面教師のように見ているのではないか?」
と感じるようになったのだ。
いちかが、さらに口を開いて話をしたことが、最初の言葉よりも、さらに大きなショックを、つかさに与えたということに違いはないだろう。
というのも、
「私、人から、全否定されたかのような気持ちになったの」
と言ったことであった。
ただ、すぐに、
「ごめんなさい。お話はそっちではなかったわね」
というので、すぐにつかさも我に返ったが、これは、
「つかさのビビった表情から、これ以上この話を最初にしようとすると、埒が明かなくなるから、ここでやめておこう」
と感じたのかも知れない。
いちかの方も、我に返った。
いちかがいうのには、まず前置きがあった、
「私は、まわりからどう見られているのか分からないけど、結構いつもいろいろ考えている方なのよ。ただ、その考えている態度が、ぼっとしているように見えるので、人によっては、私は何も考えていないと感じているのではないかと思われているかも知れないけど、実は、いろいろ考えていて、それをまわりの人は、どう思っているのかということを見せないので、手の内を見せない人に対して、私は、必要以上に考えないようにしているので、分からないんだけど、意外とまわりの目を気にしているところがあるのよ」
という。
「そうなのね? でも、私には、そんな風に見えなかったわ、いちかさんは、結構まわりを気にしているように感じられたの」
とさっき、いちかに対しては、自分のことを、名前のさん付けで呼んでいることに違和感を感じたのに、自分の方からは、無意識にでも口を出すようになったことが、自分でもつかさは不思議に思っていた。
「意外と私たち、本当に似ているんだわ」
と感じた。
その時に、先ほどの、いわゆる、
「殺人予告メモ」
に書かれているところの自分の名前を、その時は気にしていなかったが、そこに書かれている自分の名前が、どこにあるのか、今なら分かる気がした。
そう、
「いちかと対に並べられている」
と感じるのであった。
いちかというのは、
「私とは性格が違っているので、対になることはないだろう?」
と思っていた、
だから、今回の
「殺人メモ」
を見て、
「自分の名前が載っている」
ということさえびっくりしたのに、その横にある名前がいちかだったことで、さらにびっくりさせられた。
最初にそのメモを見た時、漠然と並んでいる名前を見たので、そこに、
「自分の名前がまさか書かれている」
などということを、一切考えていなかったのだ。
それを思うと、
「もう一度見直してみよう」
と思ったことが、
「まるで虫の知らせのようなものだ」
と感じたのが、不思議だったということでもあり、
「そこに書かれているということは、対になっているということだ」
と考えると、
「その対の相手が、いちかでなければおかしい」
とまで、まるで、
「わらしべ長者」
のように、いろいろ変わっていくのが感じられたのだった。
しかし、実際の、
「わらしべ長者」
というのは、いい方に変わっていくので、つかさが感じていることと、かなり違っているということになるであろう、
「わらしべ長者」
というのは、信心深い人が金に困っていて、お寺にお参りに来た時、
「帰りに手に掴んだものを大切にせよ」
というお告げがあり、それがわらしべであったことで、そこから、いろいろなものにm物々交換で変わっていき、最後には、お城の殿様になるというような話であっただろうか。
奈良県の桜井にある、長谷寺が、その起源だという話を聞いたことがあったのだ。
そんなわらしべ長者の話であるが、
「よく考えれば、こんなに都合のいい話があるものか?」
ということになる。
そう考えると、今回のこの
「殺人メモ」
というものも、
「考えすぎなんじゃないか?」
といえるのではないだろうか?
実際に、これのどこが、殺人メモといえるのか? それは勝手に二人が想像しているだけではないか?
それも、つかさが、つい、
「殺人メモ」
と口走ってしまったからではないか。
いちかの方も、殺人メモという言葉を意識していたのかも知れないが、それはあくまでも、その意識があってのことであって、
「これが殺人メモかどうか?」
ということは、普通に考えれば、
「そんなバカなことはないだろう」
といって、一蹴されればそれでおしまいではないだろうか?
それを考えると、
「いちかも、私も、必要以上に考えすぎるところがあって、そこが、このメモでの対になっているゆえんなのではないか?」
ということであった。
確かに、つかさは、自分が、
「考えすぎ」
ということも、
「被害妄想的なところがある」
ということも分かっている。
それを思えば、
「対であることを、いちかの方も意識しているのかも知れない」
と感じた。
だからといって、
「どこが対だと思う?: