小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

都合のいい無限理論

INDEX|9ページ/19ページ|

次のページ前のページ
 

 という意味で、無限に広がっていくということであろう。
 したがって、答えが見つかるかどうか、分からないのだ。
 つまり。
「片方では、原因があって結果がある」
 ということで、事件が終結した時が、
「その答えだ」
 ということで、結果のない事件はないわけで、それが答えということで、制限されているということだ。
 しかし、もう一つの考え方としては、
「自分たちが求める結果にたどり着くかつかないか?」
 という発想は、ある意味、実に都合のいい結論を求めているのであるから、必ずしも、答えにたどり着けるかどうか分からない。
 そこかでたどり着いたとしても、それが、青年将校のいう、
「歴史が出してくれた答えなのかどうか、誰にも分からない」
 からである。
 結果という答えが、もし、青年将校たちの言った理想であったとしても、出てきた答えが、本当に正解なのかどうか、その答えは、結果が出てから、検証することで分かるというものだ。
 その検証がうまくいくかどうか、その答えは、
「無限の中にしかない」
 ということで、これが、
「歴史が出してくれる答え」
 ということにしかならないといえるだろう。
 これが、歴史の無限性ということで。フィクションによる、
「無限性」
 というものが、可能性であったということであれば、
 歴史の無限性というのは、
「あくまでも、都合のいい回答をもっていて、そこにたどり着けるかどうか」
 という、
「求めること自体が、そのおこがましさなのではないだろうか?」
 といえるのであった。

                 ひき逃げ

 りえが、中学生の頃のことであった。
 当時高校生だった、りえは、いつもと同じように、田舎道を通学していた。
 彼女の家は、何とも田舎のあぜ道のようなところを舗装しただけというような道が、結構、いろいろなところにあるという、
「一種の田舎」
 といってもいいだろう。
 当然、最初から交通の要衝のように、車ありきの道ではなかったので、車一台が、徐行してやっと離合できるかどうかというような道だったのだ。
 そんな道は、都会のように、車が慢性的に渋滞を繰り返しているわけではなく、
「都会と都会を結ぶ、幹線道路が混んだ時のために、近道として利用されることが多い」
 というところであった。
 だから、本来であれば、そんなに混むことはないのだ。
 実際に混む可能性があるとすれば、
「朝のラッシュ時くらいであろうか、夕方は、皆退勤の時間がバラバラということで、混むとしても、曜日によるということではないだろうか?」
 といえるのだった。
 そんな道を、いつも自転車で通学していた、りえだったのだが、いつもは遅くなることもなく、それこそ、
「冬でもなければ、完全に日が暮れた、夜の静寂の中を走り抜ける」
 ということはなかったに違いない。
 当然、あぜ道を舗装して作った道ということで、街灯が、まともについているわけでもなく、夜になると、半分が、
「暗闇」
 ということで、自転車になど乗っていると、それだけで危ないということになるのだった。
 というのも、その道は、近道ということで、たいていの車は飛ばしてくる。
 しかも、夜ということになれば、離合してくる車も、ヘッドライトがついているので、分かりやすいと思い込んでの運転になるだろう。
 だが、それは、
「歩行者や、自転車に乗っている人はほとんどいない」
 という勝手な思い込みによるものであった。
 もし、人を引っ掛けたとしても、
「動物でも轢いてしまったのではないか?」
 ということで、ほとんど、意識をしないといっても過言ではないだろう。
 しかも、暗い時間に走っているのは、
「早く帰りつきたい」
 という意志が強く働いているというのは、分かり切ったことに違いなかった。
 それだけ、スピードを出していると、視界が狭くなってくる。
 というのは、
「スピードを出すということは、それだけ焦点が前にあるということで、その理屈としては、自分が見えている距離というものが、実際には、目の前に見えることも、実際には距離があるのであり、そのせいで、正面に意識が集中するから、道の端の方にまで意識がなかった」
 といってもいいだろう。
 まっすぐに見える道でも、スピードを出していると、横の視界が狭まるので、スピード自体の錯覚から、
「実にその道が、狭く感じられる」
 ということであった。
「その道を人や自転車がいるなど、思いもしなかった」
 とほとんどの人が感じないだろう。
 極端にいえば、
「何かをはねた衝撃を感じた時。
「しまった」
 と、とっさに思うことであろうが、その次の瞬間、
「どうしてここに?」
 と考えるのだが、その思いというのは、当然、
「人間」
 ということを考えるからであろう。
 だが、その次の瞬間には、
「こんなところを人が歩いているなんて」
 と感じる。
 それは、
「なるべく、自分の都合の悪い考え方はしたくない」
 という発想からくるもので。それを、
「都合よく解釈している」
 と感じるのは間違いないだろう。
 しかし。実際に降りて、確認するのは怖い。
「もし、そこに転がっているのが、人間の死体だったら?」
 とは、どうしても、一度は考えているだろう。
 しかし。それが、
「人間の死体」
 ということであったら。
「俺はどうなるんだ?」
 ということを考える。
 すると、発想はそっちにばかり行くことになるのだ。
 本当に事故を起こしたということであり、その運転手が気の弱い人であれば、どうなるだろう?
 まずは、自分が、車から降りて、どのような行動をとるか、シミュレーションしてみたといってもいいだろう。
「その場面を誰かに見られていたとすればどうだろう?」
 と考える。
 そうすれば、もし、最悪の場合。
 つまりは、人を轢いてしまったとして、その後、自分が、
「ひき逃げ」
 というものをしたとすれば、もし、警察の捜査が及んで、自分に事情聴取が回ってきたとすれば、
「どんなことを言ったとしても、それは虚偽の証言であり、すべてが言い訳にしなからない」
 ということになるだろう。
 だから、その時点で、大方、
「ひき逃げ犯人」
 として、連行され、逮捕されるということになるだろう。
 この場面を見られていなかったとすれば、いくらでも、言い訳はできるだろう。
 ただし、それも後ろめたいという思いを打ち消して、
「堂々としていないと、成立するもものではない」
 ということになるのであろう。
 そう思うと、
「車を降りて確認するのが怖いと思っているくらいの小心者なのだから、結局、堂々としているなどということは、無理なことだといえるに違いない」
 といえるだろう。
 そんなことを考えていると。
「一番いいのは、その場から立ち去ることだろう」
 という、最悪な形の答えを出してしまったということを考えると、今度は、それ以外のことを思い浮かべることができなくなってしまうのだ。
 その心としては、
作品名:都合のいい無限理論 作家名:森本晃次