都合のいい無限理論
「そもそも、急いでいるという一心で、そこに誰もいないという根拠のない考えだということを分かったうえで、とにかく、思い込みの塊のようになってしまったことで、柔軟に考えることができなくなってしまう」
と考えると、
「目の前のことだけを考えればいい」
ということになり、どんどんと狭まっていく視野が、判断力をマヒさせ、決断を、誤った方向に進ませるという、
「何も考えずに、パッと思いついたことを答え」
と考えるようになるのだった、
その答えが見つかるというのも、結局は、
「目の前のことを、すべての答えだ」
としか考えられないという結果が、結論になってしまうということでしかないというものであった。
そんな、小心者が起こしたひき逃げなどは、犯人が、もし、その考えが、一番の正解だと思ったとしても、それは、原因から見えている結果を見たというわけではなく、
「その場で考えられる問題」
というものが、
「無限に存在する可能性というものだ」
と考えられるのであれば、答えは、少し複雑だったことだろう。
とにかく、
「その場から逃れたい一心」
ということになると、
「考えることが嫌だ」
という思いから、小心者であればあるほど、
「理屈を急いで、自分の立場と組み合わせる」
ということが、
「都合のいい解釈だ」
ということになれば、それは、
「組み合わせると得られるかも知れない最良の方法を、都合よく思える答えで、勝手に解釈されてしまうと、求まりそうな答えが、あくまでも、
「正しい答え」
として認識されてしまうことになるだろう。
というのも、
「正しい答えではない」
という考えを一気に否定してしまうだろう。
しかし、冷静に考えるとすれば、最悪の考えが生まれたとしても、それは、
「やってはいけないこと」
ということでの、
「戒めに使える」
という程度の発想であって、
「結局、いかに答えを見つけるか?」
という思いと、
「見つかった答えを吟味して、最善の方法を思いつく」
というのは、その中に、幾度か分岐点があり、その都度、
「最善の方法」
というものを見つける必要がある。
「だけど、最善の方法というのは、すでに分かっているということではないか?」
と考えるが、ここでいう。
「最善の方法」
というのは、
「自分にとっての最善の方法」
ということで、その場においての、最善の行動というのが、本当の、
「最善の方法」
というものであって、
「自分にたいしてのものだ」
ということであれば、それは、
「最善の方法」
というわけではなく、
「最良の方法」
といってしかるべきといえるのではないか?
それを考えると、
「そもそも、最という言葉が使われているのだから、最ではない他の答えも存在していることになり、その答えがいくつなのか、そして、その詳細までが分かっているのかどうか?」
ということが分かり切っているわけではないと考えられるのだ。
「数が多ければ多いほど、その成立可能性は、薄い」
といえるのかも知れないが、
「真実は一つ」
というように思い込んでいる人は、それらの可能性を一つ一つ潰していって、最後には、残ったものが正しいとして、回答以外に存在しているものは、ゼロであって、決まったものだけが、百ということであれば、
「最初から答えは決まっていた」
ということであろう。
確かに人間というのは、
「何が正しいのか?」
ということを考え。最後にたどり着いたものを、最初から分かっていたかのように解釈することで、出てきた答えが、最初から分かっていたということで考えると、途中考えていたということを忘れてしまい、
「最初から結論は出ていた」
と感じることであろう。
これは、別に、
「ひき逃げに限ったことではない」
ともいえることで、
「人はそれを素直にできることから、フレーム問題も解決できたのだ」
といえるのではないだろうか?
ここで出てきた。
「フレーム問題」
というのは、ロボット開発において、
「一番の結界ではないか?」
と言われることであり、
「ロボット工学」
あるいは、
「ロボット開発において、問題になることとして、この、フレーム問題というのがあるのだ」
ということであった。
ロボットというのは、
「頭の中に、人工知能を持たせて、自分で判断しながら、行動できるロボットというのが、一種の最終形態だ」
といってもいいだろう。
人工知能というものは、なんでも判断できなければいけない。
最低でも、
「人間と同じか。それ以上」
ということになるのだが、その結界というのが、ロボットの解釈というものであった。
ロボットの人工知能も、人間の頭で作ったものだから、しょせんは、
「人間と同じレベル」
というのがその最高であり、
「ロボットにおいての、フレーム問題の解決は、人間と同じレベルということに対して。それ以上でもそれ以下でもない」
といえるに違いない。
ロボットにおいて、フレーム問題は、
「その時における無限に広がる可能性の中から、関係のあることだけを選びだして、どんどん狭めていくことで、答えにたどり着く」
ということであった。
しかし、無限というものが、たどり着く先は、
「限りなくゼロに近いもの」
という理屈にもあるように、どうして、そういう結果になるかというと、
「ゼロ以外の整数を、ゼロ以外の整数で割った場合に求まる答え」
というのは、
「限りなくゼロに近い、ゼロではないもの」
ということになり、
「フレーム問題」
のように、
「無限なものを割った場合」
ということで、出てきた公式として、
「無限というのは、何で割っても、無限しかない」
ということで、結局、無限に考えられるというものは、
「限りなくゼロに近いゼロ以外のもの」
ということと、
「何で割っても無限は無限でしかない」
という、一種の、
「極端な例」
とでもいえる。
「究極の答え」
というものが、無限には存在しているということである。
「無限からは何で割ったとしても無限にしかならないということは、公式で考えたとすると、逆算を考えてしまう」
ということになるのだが、その逆算というのは、
「無限に何を掛けても無限」
ということになり、その答えというものは。
「究極の答えとして、ロボットにおける人工知能を作り出すことは不可能なんだ」
という理屈であった。
しかし、そのフレーム問題というものを、人間は、行動するときに、ちゃんと判断できているのだ。
しかも、まったく意識することなく、まるで本能であるかのように人間であればできるのだ。
ということは、これから作り出すロボットというものは、
「人間という。一介の生き物から作られる」
ということであり、
「人間であったり、それ以外の動物というのは、神様が作った」
ということで、その結論は、
「人間というものが、素晴らしい」
ということになるのであろう。
しかも、その無意識というものが何かというと、
「本能」
という言葉の一言で片づけていいものだろうか?
と考えてしまうのだった。