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都合のいい無限理論

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「原作があるのであれば、それをそのまま脚本として仕上げればいいだけで、オリジナルともなれば、ストーリーから何から独自で考えなければいけないので。大変だろうな」
 と思うことだろう。
 しかし、実際にはそうでもないようだ。
「そのまま、原作を、脚本として起こす」
 ということは、聞こえとすれば、
「原作があるのだから、楽じゃないか?」
 と感じるが、実際にはそうではない、
 前述のように、そもそも。
「小説と、脚本では、かなり違う」
 ということなのだ。
 原作は、基本的に、読者の想像力を掻き立てるように、できるだけ表現を組み込まなければいけない。
 しかし、シナリオになると、
「中にはアドリブが必要なところもある」
 というくらいに、柔軟性を重視した形でなければ、堅苦しいものであれば、監督も俳優も個性を生かせない。
 もちろん、
「脚本家に、個性は必要ない」
 などとは言えないが、
「できるだけの柔軟性によって、どこか、無限の可能性を秘めているかのようにしておく必要がある」
 ということだ。
 つまり、無限の可能性というのは、
「車のハンドルなどでいうところの、遊びの部分」
 ということであり。それがないと、いざという時に、力が入らず、事故を引き起こしてしまうということと似ていると思うのだった。
 そういう意味で、
「小説家のオリジナリティ」
 というのも、無限を感じさせるが、脚本は、それを演出するもの、さらには、演技をして、視聴者を楽しませるという、
「エンターテイメントを、皆で作り上げる芸能」
 というのが、
「ドラマ」
 であったり、
「映画」
 という、
「映像作品」
 ということになり、それぞれの役割のところで、
「無限の可能性を秘めているものを、邪魔することはできない」
 ということになるのではないだろうか?
 それは、
「エンターテイメント」
 そして、
「フィクション」
 というものの、
「無限性」
 といってもいいのではないだろうか?

                 歴史の無限性

 歴史というのは、その内容から、
「時系列においての、事件であったり、人間社会や風俗などを学ぶこと」
 といってもいいのではないか?
 もっとも、本当の定義としては、違うのかも知れないが、りえの方は、そんな風に感じていた。
 りえは、
「自分で書く小説は、フィクションしか書かない」
 ということで、
「時代小説は、書かない」
 と思っていた。
 ちなみに、
「時代小説」
 と
「歴史小説」
 と二つあるが、その違いというのは歴然としているようだ。
「歴史小説」
 というのは、
「史実はもちろんのこと、時代考証まできちっとしていて、基本的には、ノンフィクションである必要がある」
 というものである。
 逆に、
「時代小説」
 というものは、
「史実に関しては、どちらでもよかったりする、もちろん、時代考証も、基本的には間違っているというわけにはいかないが、物語のユニークさということで、わざと、時代考証はでたらめですという但し書きを書くことで、可能にしている」
 ただ、これを歴史小説でやってしまうと、その時点で、歴史小説ではなく、
「時代小説になってしまう」
 といえるだろう。
 つまりは、
「歴史小説は、ノンフィクションのドキュメンタリータッチ」
 のもので、
「時代小説というのは、史実に則っていてもいいが、あくまでも、読者を楽しませるという、フィクションによる、エンターテイメント性の高いものをいう」
 ということであった。
 りえは、
「読むなら、歴史小説、書くとすれば、時代小説だ」
 と思っているだろうが、さすがに、時代小説を書こうという気にはなれなかった。
 どうしても、
「時代劇というと、昔からある、ワンパターンともいえる勧善懲悪な話だ」
 としか感じないのだった。
「水戸黄門」
 であったり、
「遠山の金さん」
 などという、大御所的なシリーズはもちろんのこと、
「岡っ引き、あるいは、仕事人と言われる特殊な人たちが、庶民の味方になって、悪代官などの悪を懲らしめる」
 という内容に、皆、胸を躍らせている。
 ただ、それは、ほとんどが、中年以降の人であり、若い人には、あまり受け入れられないというのは、
「それだけ、社会というものを知ってきた人が、社会というものに失望していて、せめてドラマや小説の中では。勧善懲悪であってほしい」
 という思いから、時代劇や、時代小説に走るということであろう。
 そういえば、昔の戦時中など、出版にも、検閲があった時代に、戦前などには人気だった、探偵小説は、発禁になったり、発行されているものは、
「絶版とされた」
 という時代があった。
 それは、やはり、
「戦争遂行のために、当局が、ふさわしくない」
 と感じたことから、
「探偵小説や、ゴシップ小説、さらには、SF系などは、発禁にされたのだろう」
 と思えた。
 それに比べて。時代小説は、
「勧善懲悪」
 という、当時の日本の戦争遂行のスローガンである、
「大東亜共栄圏の確立」
 ということに近かったのだろう。
「大東亜共栄圏」
 というのは、それまで、欧米列強から、東アジアを植民地とされ、搾取されてきたという、
「黒歴史」
 に幕を閉じるという意味で、
「アジアから、アングロサクソンの勢力を駆逐し、その後に、日本が中心となって、アジア独自の新秩序を打ち立てよう」
 というものであった。
 これのすごいところは、
「アジアから、アングロサクソンを駆逐したところで、やめない」
 というところであった。
 これの見方として、
「これまでの列強に変わって、日本がアジアの盟主になろうとする野心が見え隠れしている」
 というところにあるのかも知れないが、少なくとも、アングロサクソンからの解放というのは、それぞれのアジアの国としては、一種の、
「悲願」
 ということであっただろう。
 そもそも、日本だって、鎖国を、アメリカによって、
「艦砲外交」
 というものによって、半ば強引に、開国させられたわけだ。
 もっといえば、
「条約を結ばなければ、戦艦で攻撃する」
 といって、大砲を、江戸の町に向けているのだから、開国しないわけにはいかないという状況だったのだ。
 それを思えば、
「日本が、朝鮮を同じやり方で開国させた」
 ということも、ある意味、日本としては。
「開国し、明治維新を成功させた」
 ということが自信になっているのかも知れない。
 もっとも、
「明治維新が成功した」
 といえるかどうか、分かったものではないが、ただ、時代は、着実に近代化していき、次第に、
「世界の大国」
 として君臨するようになったのも事実であった。
 だから、いち早く、不平等条約を解消し、
「独立国日本が、アジアで唯一、列強の仲間入りできた」
 というのは、ある意味、
「明治の元勲」
 と呼ばれる人たちの功績であることは間違いないだろう。
 そんな時代において、朝鮮が独立する際には、
「日本の明治維新に習う」
 という独立派の勢力があったというのも事実である。
作品名:都合のいい無限理論 作家名:森本晃次