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都合のいい無限理論

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 といっても、相手はすでに殺人犯になっているわけだから。警察に対して圧倒的に不利であり、犯行を犯したということが分かってしまえば、いくら交換殺人の話をしたとしても、警察が捜査をしても、
「殺してほしい」
 と思った人間には、絶対的なアリバイがあるので、
「もし、捕まってしまったのであれば、そのことを口にするかも知れないが、そうでなければ、安全であった」
 つまりは、
「未解決事件として迷宮入り」
 ということになれば、第一の犯行に関しては問題はない。
 しかし、肝心の第二の殺人が行われないということは、第一の殺人の犯人にとっては、いかんともしがたいことだが、
「自分が、捕まってしまうというリスク」
 を負ってまで。第二の犯行を行うかどうか、微妙なところであろう。
「もし第二のターゲットが生きていることで、自分の身が危ないなどということであれば、話は別だが、復讐ということであれば、計画がとん挫したということで、何とか自分の中で、納得いかないが、これも、警察に捕まることを思えば、しょうがないことであろう。
 そんなことを犯行計画を練っている時に分かるというもので、
「交換殺人というのは、もろ刃の剣だ」
 ということになれば、最初から計画をすることはないというものだ。
 そういう意味で、
「興味を引く犯罪」
 という意味で、
「架空のお話」
 としてであれば、
「フィクション」
 ということで、面白い話になるということは分かっているというものである。
 つまり、
「小説ではありえるが、本当にはなかなかない」
 というのは、
「ミステリーとして面白い」
 ということであり、逆に、
「現実にはあるが、小説にはない」
 というのは、
「小説にしても、面白くない」
 ということから、小説にならないのだ。
 それは、逆にいえば、
「ドキュメント」
 として、
「ノンフィクション」
 だということだ。
 それだけ、
「おもしろい」
 ということが分かり切っているということでは、楽しい話に違いはないが、実際に、りえには、
「自分が書くには、面白くない」
 と思っているのだった。
 これが、ミステリーということになると、どちらかというと、サスペンスか、ハードボイルドというような、
「ドラマになりそうな、映像化が可能で、映像化すれば、一定のファンが付きそうな話」
 といってもいいだろう。
 りあは、そういう話が嫌いだった。
 言葉で説明するには難しいが、
「ノンフィクションというものは、何か、安易な気がする」
 というものだった。
 もっといえば、これが、
「小説と、シナリオの違い」
 とでもいえばいいのか、小説というものと、シナリオというもの、基本的には、
「違うもの」
 といってもいいだろう。
 小説は、
「読ませるもの」
 というのは、誰もが思う認識で、映像に頼らずに、読者の自由な想像で、小説を書きあげるというものであった。
 しかし、シナリオというのは逆に、
「映像化するために、いろいろな部門の中の一つ」
 といえる、
 つまり、小説が、一人で製作という意味で、完結するものだが、シナリオは、映像作品になるがゆえに、俳優から監督、その他のスタッフと一緒になって、製作に携わる。要するに、
「映像化のたねに、一部というのが、シナリオだ」
 ということだ。
 ということになると、作品を作るうえで、それぞれの役割分担があり、
「邪魔しないように、気を遣って制作する」
 というのがシナリオだった。
 それぞれの領域を冒すことなく、自分の役割をしっかりと示すというのは当たり前のことであり、
「俳優や監督というのも、それぞれにプライドがあるので、それを踏みにじらないようにしないと、俳優は、
「演技ができない」
 と言い出すに違いなかった。
 俳優にしても、監督にしても、
「一筋縄ではいかない」
 という人が多い。
 それは、それだけ、
「自分の仕事にプライドを持ってやっているか?」 
 ということであり、それは、シナリオライターにしても、同じなのだが、一番の違いは、
「俳優や監督が、表に出るような仕事であるのに対し、脚本家というのは、裏方の仕事だ」
 ということになるだろう。
 俳優というのは、
「その人が演じなければ、芝居にならない」
 というのは当たり前で、最終的な視聴者は、
「自分の贔屓の俳優を見ている」
 という人も多いだろう。
 監督にしても同じで、映画にしても、
「あの監督がメガホンを取っているのだから、見に行こう」
 と、お金を払ってでも見に行くということが当たり前といえるであろう。
 しかし、脚本家は、そうもいかない。
 ただ、一時期、テレビドラマなどで、
「トレンディドラマブーム」
 というのがあった時は、シナリオライターが注目され、
「〇〇という作品を書いたあの脚本家の作品」
 ということで、ドラマのでき自体を、
「脚本家」
 というものの力によるものだということで、もてはやされた時期もあった。
 だが、それも、数年しか続かなかった。
 そもそも俳優も、
「トレンディドラマ」
 などでは、男優も女優も、ほぼ、毎回主役は決まっていて。
「トレンディドラマの女王」
 などと言われていた人もいたくらいだった。
 ただ、脚本というのは、小説とは違って、
「すべてを描く」
 ということではない。
 脚本というのは、ある意味、
「台本」
 というものであって、それが一種のテキストということになり、それを元に、監督が演出を行い、俳優がそれを演じるということになる。
 つまり、
「あまりすべてにおいて書いてしまうと、監督や俳優の、独自性であったり、個性というものが奪われて、いいところが発揮できない」
 ということになる。
 テキストというのは、
「学校などの授業や講義で使われるもので、それを元に、カリキュラムが決められ、それの通りに教師が生徒に対して教える」
 という意味で、カリキュラムを考える教育委員会や、文科省が、
「監督」
 という役割であり、授業で、生徒に教える役割が、
「俳優」
 というものであろう、
 あくまでも、テキストは、カリキュラムを決めて、授業に役立てるための指針でしかなく、最終的には、先生が生徒に教えるという意味で、
「俳優が演技をして、視聴者を楽しませる」
 という意味では、脚本というのも、
「指針のようなものだ」
 といってもいいだろう。
 ただ、物語ももとになる部分ということで、テキストよりも、暗しい必要はあるというものだった。
 映像作品を作るうえで、
「原作」
 ということを考えると、最近では、
「人気漫画」
 というものが多かったりする。
 昔であれば、基本は、有名小説家の作品だったが、トレンディドラマのあたりから、脚本家オリジナルというものが多くなり、次第に、マンガが多くなってきたというのが、時系列的な流れだったのだろう。
 実際に、脚本家が、
「原作ありきで、脚本として起こす」
 というのと、
「脚本家のオリジナル作品」
 というのとのどちらが難しいのか?
 ということである。
 普通に考えれば、
作品名:都合のいい無限理論 作家名:森本晃次