都合のいい無限理論
「限りなくゼロに近い時間の間で移動する」
ということになる。
ということであれば、
「タイムマシンというのも、時間を飛び越えながら、限りなくゼロに近い距離を移動しているのかも知れない」
といえるのではないだろうか?
ただ、この発想は奇抜というよりも、前提として、
「タイムマシンというものが、ワープの相対的な存在であるとすれば」
という発想から生まれた奇抜さといってもいい。
何が奇抜なのかということを考えると、
「どれだけ冷静に考えることができるか?」
ということが重要で、
「いくら天才的な頭を持っていて、すばらしい発明ができるとしても、それは、冷静沈着な状態であるということが大前提だ」
ということになる。
「冷静に考えることができなければ、それは焦りとなって、判断力を狂わせるばかりか、決断のタイミグを逸する」
といってもいいだろう。
冷静に考えることは、まずは、判断力を助け、最後に必要な、
「決断力」
というものを生かせないのであれば、まったく意味のない力だといってもいいだろう。
「決断力」
というものは、
「覚悟」
というものに繋がっている。
ともいえるだろう。
決断するために、判断力という武器を磨き、覚悟という、タイミングを自分で理解できるようになる力を養うというのが必要である。
それは、
「自信に裏付けられる、自分にとっての確証」
というものが、生まれてくる土台が必要であり。
「理論を証明するために必要な勉強」
というものがあり、それが、
「学問」
というものである。
それには、判断力を養うための知識と、常識というモラルというものが必要となるだろう。
少なくとも、知識が自分の判断力をはぐくむっものであり、常識がまわりの見る目を確かなものにし、さらには、いずれは。自分が正しいという自信にもつながってくる。
その判断力に、今度は、確証というものが、研究や開発によって、生まれたものが、間違いではなかったという、まわりに抱かせるものとなるのだ。
それらすべてのものは、
「何を基準に考えられるのだろう?」
と考えると、それが、
「裏付けによって、自信にも、確証にも、判断力というものにも、決断力というものにもなるということだ」
といえるだろう。
「自信の裏付けが、判断力であり、覚悟の裏付けが、判断力というものであり、それが結果として確証となるのだ」
と考えると、世の中というものが、
「一人の人間の考えは、それぞれなのだが、その積み重ねが、確証であったり、自信というものの裏付けとして成り立つ」
ということになるだろう。
そう思うと、
「タイムマシンと、ワープ」
という正反対のものも、裏付けによって、確証に変わる日が来るというものであろう。
そんな、
「裏付け」
であったり、
「判断力や決断力」
というものに対しての、時系列における見え方とうものを考えた時、その先にある、
「無限」
なのか、あるいは、
「限界というものがある」
ということなのかというのを考えていると、そこには、目に見えない何かがあるのを感じさせられるのであった。
というのも、
「判断力も決断力」
というのも、出発点から見れば、どんどん小さくなっていくものであり、ゴールと思われるところから見れば、前述の、
「宇宙船が、地球から飛び立つときに見える光景」
に見えるのかも知れない。
その時、本当であれば、小さく見えているはずの、宇宙船が、いかにも大きく見えるということで、
「出発点」
から見ても、
「ゴール」
から見ても、その二つに言えることというのは、
「限りなくゼロに近い」
というものであり。その確証として用意されているものは、
「無限」
というものになるという感覚になるに違いない。
「タイムマシン」
にしても、
「ワープ」
にしても、絶対的な、
「無限」
というものではないかも知れないが、この時の、
「限りなくゼロに近い感覚」
というものを、判断力や、決断力としてみようとした時、
「限りなく」
という言葉は、そのまま受け取っても、
「無限」
ということになる。
ということを意識させないほどに、
「無限」
と
「限界がある」
ということの間で、曖昧な感覚にしているのが、
「ゼロに近い」
という感覚なのではないだろうか?
さらに、一つ考えられることとして、
「人間が都合よく物事を考える時というのは、決して無限な世界ではなく、必ずどこかにゴールがあるという、限界のあるものではないだろうか?」
ということであった。
そこには、結界というものがあり、その向こうには、別の世界が広がっている。
だから、
「無限であってはいけないのだ」
ということがいえる。
それが。お互いに、相対するものであり、
「昼と夜」
であったり、
「表と裏」
というような、片一方が表に出ている時は、もう一つは、裏に控えているという感覚なのではないだろうか?
それを思うと、
「限りなくゼロに近い」
というものは、相対するものが存在しないものではないといけないと、いえるのではないだろうか?
フィクションの無限性
釘宮りえという女子中学生がいるのだが、彼女は、中学に入ってから、小説を書くようになった。
小学生の頃までは、
「自分が本を書くなどということは、想像もできなかった」
というのは、
「作文が大の苦手で、皆の書く文章を読んで。本当にうらやましいと感じた」
というほどであった。
小学生の作文というと、テーマは、日ごろの身近なことであり、漠然としているようだが、テーマとしては、ある程度絞られている。
それは、
「作文というものが、ノンフィクションだ」
ということだからだ。
実際に、これがフィクションであれば、そうもいかないといえるだろう。
「フィクション」
というのは、
「架空のお話」
というもので、
「ノンフィクション」
というのは、
「架空ではない、現実のお話」
といってもいいだろう。
そういう意味で、
「ノンフィクションというのは、作文のことである」
という定義づけをしている人がいたが、まさにその通りだといってもいい。
逆に、
「フィクションというのは、物語であり。創作としての架空の話」
といえるだろう。
だから、フィクションでテーマが決まっていたとしても、そのテーマは。本当に漠然としているもので、この場合の漠然というのは、
「いくらでも、発想が膨らむもの」
といってもよく、
「どの方向からでも、物語を作ることができる」
という意味での、柔軟性というものを感じさせるものが、テーマとなるといっても過言ではない。
だから、これは、勝手なりえの思い込みなのかも知れないが。
「ノンフィクションを書ける人は、フィクションも書くことができ。フィクションを書ける人は、ノンフィクションを書くことはできない」
と思っていた。
「できない」
というよりも、
「しない」
と言った方が正解なのかも知れない。
ただ、りえが考えているのは、