都合のいい無限理論
が、大気圏を超える時、映像は、目の前に、そのスターシップが中心に大きく描かれていて、その後ろに、地球の端が丸くなって次第に小さくなっていくのが見えた。
実際に横から見れば、地球の大きさは、そのスターシップの果てしないほど大きなものであるにも関わらず。地球から出てきた船の大きさは、地球とさほど変わりはない感じであった。
その大きな地球が、微妙に回転しているのが分かる。
「それは、地球が自転をしているからだ」
ということは分かっているのだが、ゆっくりであるが、回っているのを見ていると、
「確か、24時間かかるはずなんだけどな」
と思うと、その回転が、
「少し早いのではないか?」
と感じられるのであった。
「それはきっと、船が宇宙い飛び出していく動きを見ているから、その錯覚と、それぞれの大きさと距離とが、微妙に絡み合って。錯覚を見せているのかも知れない」
と感じるのであった。
宇宙に飛び出したロケットや、スターシップというのは、基本的に、光速で飛ぶことになる。月や火星であれば、そんなに遠くないが、というのは、他の星に比べてはという意味であるが、これが、太陽系外などということになると、よく言われる単位としては、
「光年」
という言葉が使われる。
これは、
「光速で飛んだ場合に、何年かかるか?」
という単位であり、一種の、
「距離の単位だ」
といっていいだろう。
その単位に、
「光年」
しかないということは、それだけ、
「光速で、1年以上がかかる星ばかりだ」
ということになるだろう。
ということは、例えば、
「500光年離れた星がある」
ということで、その星のことを調べようと思ったとして、
「その星が現在存在しているかどうか、分からない」
ということである。
どういうことかというと、
「今空に光っているその星の光は、光のスピードで、500年かかるところから来たものを見ている」
ということになるので、
「今見えている光っている星というのは、500年前の光だ」
ということになるのである。
日本で500年前というと、どれくらい前なのかというと、16世紀と呼ばれる時代で、
「1500年代前半」
ということになる。時代というと、
「群雄割拠の戦国時代」
ということであり、
「毛利元就であったり、北条早雲が見ていた光だ」
といえるであろう。
数十年前から、SFアニメや、SF映画であれば、そんな数百光年というものを、はるかに超えてやってきて、
「地球を侵略しようとする宇宙人がいる」
という設定がある。
それを考えると、もし、これが人間と同じ寿命であれば、
「宇宙船の中で、最初に乗った宇宙飛行士の何代目が、この宇宙船で来たということになるのか?」
ということになり、普通であれば、説明がつかないのだ。
しかも、特撮などでは、
「まるで、隣の国から侵略に来た」
というくらいのもので、数日くらいで、その星の母性から、宇宙船団がやってくるという設定になっている。
ただ、この場合に、
「アインシュタインの提唱した、相対性理論であれば、どうだろう?」
それは、
「光速で移動すれば、実際の速度の時間よりも、かなり遅く過ぎる」
ということで、ある映画では、この設定を忠実に描いていて、
「宇宙船では、1年くらいであっても、表は、数百年が過ぎているはずだ」
ということになっているので。宇宙船の中で一年くらいであれば、表は、500年くらい過ぎていたとしても、無理なことではない。
ただし、これは、
「宇宙船の光速の中」
というのが、距離と比較できるものなのか、それとも、
「表の数百年」
というが正しい時間なのか?
それを考えると、次第に分からない世界に入ってくるのであった。
そんなことを考えると、
「アインシュタインの理論は正しい」
といえるのではないか?
光の速度というのが、どのようなものか?
それを考えた時、アニメでは、さらに光速で飛ぶだけではなく、そこから、
「ワープ走行」
という発想まで生まれた
ワープというのは、
「超過速度」
という印象であろうか?
しかし、これは考え方として、
「本当に可能なのか?」
ということであった。
その可能というのは、
「科学的に可能なことなのか?」
ということではなく、ワープをすることで、人間が、その速度に耐えられるか?
ということになる。
例えば、戦闘機などの、音速を超える程度のマシンに乗るだけで、一般人には、とても耐えられるものではない。
何しろ、垂直落下よりも、さらに、圧力がかかるのが、戦闘機の操縦なのである・
それが光速を超えるのだから、
「想像を絶するものだ」
といえるのではないだろうか?
一つ考えられることとして、
「慣性の法則」
というものがある。
これは、電車の中などの、密室のようなところにいれば、表の影響を受けることがないというもので、
「電車の中で飛び上がれば、電車がいくら動いても、着地は、飛び上がった地点になる」
というものである。
この法則を、
「光速を超えるところで物理的に可能に、今の科学力ではできるのだろうか?」
ということだった。
光速を超える、例えばワープなどのシーンを描いたアニメなどでは、タイムトンネルのような中を、宇宙船が飛んでいる。そこには、太古の昔に存在した恐竜や、古代人などの進化が写っていて、そこで、古代人などは、その宇宙船を見て、臆病に震えていたのかも知れない。
そんな宇宙船は、ある意味、
「タイムマシンを模しているかのようではないか?」
つまりは、宇宙船が、
「タイムトンネル」
を通って、別の場所に飛び出すのが、ワープだとすると、
「タイムマシンが、時間を超えて、同じ場所に降り立つ」
ということであり、
「ワープというものは、時間を感じさせず、まったく時間が経っていないのに、まったく違う場所に飛び出す」
というものである。
このどちらも、飛び出す場所に何があるか?
ということをちゃんと計算しておかなければいけないだろう。
マンガなどで、容易に、タイムマシンで別の時代に行って、そこに何があるのかを気にすることなく描いているが、それは、
「子供相手の番組だから許される」
ということで、飛び出した先が、予期せぬ場所だったことで、それがストーリーを膨らませるということにもなるのかも知れない。
だから、
「本来なら、その時代のその場所をサーチできる」
というような機械が、一緒に開発されないといけないということだ。
これは、ワープでも同じことで、少なくとも、何か新たな開発をする場合には、同時にいくつか必要な開発があるということは、未来の機械に限らず、今の時代にも言えることなのかも知れない。
ただ、タイムマシンと、ワープとが同じ発想だというのは、どうなのだろう?
少し、発想が違っているように思うのだが、
「タイムマシンというのが、ただ時間を超えるだけで、同じ場所にしか着地できない」
ということでったり、
「ワープは時間を飛び越える」
ということであるが、それは、一種の、