小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

都合のいい無限理論

INDEX|18ページ/19ページ|

次のページ前のページ
 

 といってもいいようで、それだけ力がポジティブになるといってもいいだろう。
 あまりにも、都合のいい発想であるが、そこには、科学的根拠というものが、実証されていないようで、各種の本が出ているが、科学的な裏付けはないとされている。
 ある意味、
「ものは考えようだ」
 といってもいいのかも知れないが、それも悪いことではないといってもいいだろう。
 少なくとも、
「ネガティブにばかり考えているよりもマシだ」
 といってもいい。
 そもそも、
「ネガティブにばかり考え始めると、徹底的に、悪い方にしか考えない」
 というのは、昔から言われていることだった。
 「どこまで行っても、悪いことばかり。だから、うつ状態にも陥るのであろう」
 と考えられる。
「うつ状態だから、悪い方に考えるのか?」
 それとも、
「悪い方に考えるから、うつ状態になるのか?」
 これは、神経内科の分野から見れば、その答えは分かり切っていることなのかも知れないが、
「気の持ちようだ」
 ということなのかもしれない。
 ことわざにだってあるではないか?
「病は気から」
 というように、それが真理ということであれば、
「悪い方に考えるから、うつ状態になる」
 といえるだろう。
 しかし、うつ状態が、実はその人の中に巣くうようになり、その人の性格として位置づけられてしまったら、その時点からは、
「うつ状態だから、悪い方に考える」
 ということになる。
 それがうつ状態ということの継続性というものであり。
「落ち込んでいくようになると、その状態から抜け出すということは、難しいといえるのではないだろうか?」
 このようなうつ状態だから、
「うつ病だ」
 という判断で片付けるわけにはいかない。
 というのは、同じうつ状態であっても、病気は、うつ病だけではない。
「うつ状態になる時、その前に躁状態というのが、存在していて、この二つが、周期的に繰り返すことになる」
 といわれる、いわゆる。
「躁うつ病」
 と呼ばれるものがある。
 今では、
「双極性障害」
 という言葉で呼ばれているのだが、それは、
「うつ病:
 のそれとは、まったく違っているといってもいいだろう。
 しかも、
「躁状態からうつ状態、そして、うつ状態から躁状態」
 と、まったく逆の作用に、いきなり飛ぶのだから、その距離は、ハンパではないといえるだろう、
 そうなると、
「プラスからいきなりマイナス。マイナスからプラスになる」
 というわけで、忘れていけないのが、
「その間に、ゼロと通る」
 ということだ。
 ゼロというのは、無限である、
「限りなくゼロに近い」
 という発想を裏付けるものとしても考えられるということは、
「双極性障害」
 というものを、
「無限ではない」
 と考えるのと同じように、
「引き寄せの法則」
 というのは、どうなのか?
 と感じてしまうのだった。
「無限という言葉は、どこまで行っても、限界がない」
 ということなので、
「引き寄せの法則」
 というものには当てはまらないといえるのではないだろうか?
 なぜなら、その発想というのは、
「そもそも、引き寄せの法則というのが。純粋なエネルギーの存在に裏付けられるものだからだ」
 ということからきているのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、結果、最初の考えに戻ってきたりするものである。

                 大団円

「無限と無限大の関係」
 というものを考えたことがあった。
 どちらも、
「限りがない」
 という意味では同じようなものだという解釈ができるだろう。
 しかし、厳密にいえば、少し言葉としてのニュアンスが違っている。
「無限大というのは、特に大きさについて語る」
 というものであり、
「無限というのは。数量やその程度について語るものだ」
 という発想であった。
 そう考えると、
「学問として考えた時、数学的な発想が、無限大というもので、物理学や化学という方向へと考える場合は、無限という言葉を使うといってもいいかも知れない」 
 といえるだろう。
 だから、
「無限大というものが、数量であるとすれば、無限が質量」
 といってもいいだろう。
「数と質」
 ということを考えると、どちらの方が、考えやすいかというと、無限大の方であろう。
 ただ、考えやすいというだけで、その発想に、少しでも限界を感じると、その先に進まなくなってしまうといえるのではないだろうか?
 だから、無限というものは、あくまでも、数列というものの羅列だと考えると、その先に見える無限にこそ、何かの限界があるのではないか?
 という発想であった。
 だが、数学というのは、ある意味分かりやすいところがあり、
「補助線を引くことで、分かりやすくなる」
 という発想が芽生えてくるというものであった。
 それは、
「面積を求める時などに使われるやり方で、そこには、れっきとした大きさというものが証明されることになる。
 だから、補助線のように、分かりやすいものを使って、その無限大というものも、どこか証明できる何かが存在していると考えれば、
「一度行き詰ったとしても、そこから先の突破口というのは、分からないわけではないだろう」
 という意味で、
「架空数値」
 あるいは、
「虚空数値」
 といってもいいのではないだろうか?
 実際には、無限大には、∞という形で表されるものだということであるが、それが複数存在し、それぞれに、存在意義があると考えると、いずれは、証明されることもあるであろう。
 物理学においても、
「質量」
 という考え方であるが、これは、昔からの学者が考えてきた。
「不変の法則」
 などという数多くの定義で、かなりのものが証明されていきている、
 実際に、
「数学との関係」
 ということになると、難しいという発想も、当然のごとくにあったりする。
 しかし、数学における。
「無限大」
 という発想のように、楽天的に考えることは難しいのではないか?」
 と考える。
 つまりは、
「数学であれば、引き寄せの法則が成り立つのかも知れない」
 というのは、
「補助線のようなものの考え方があるからだ」
 ということになるのであれば、そういう発想のない物理学では、どのように引き寄せの法則のようなものを解釈すれば分からない」
 というものであった。
 そこで、りえは、別の考え方を持っていた。
 その発想というのは、あくまでも、
「虚空物理学」
 と自らで名付けた。
 普段から見えている物理学というものが、現実のものであり、りえの考えている発想は、さらに漠然としたもので、
「虚空」
 あるいは、
「架空」
 とまで言っていいものであった。
 普段から、自分が描くとすると、そこにあるのは、
「フィクションでしかない」
 という発想に近いものだといえるであろう。
 数学における、
「補助線に近い」
 というものを、考えたのが、物理学における、
「プラスアルファ」
 のようなものだといえるのであった。
 これは、元々、りえの中にあった、
「耽美主義」
 という発想からくるもので。
「耽美主義」
 というのは、
作品名:都合のいい無限理論 作家名:森本晃次