都合のいい無限理論
といってもいいようで、それだけ力がポジティブになるといってもいいだろう。
あまりにも、都合のいい発想であるが、そこには、科学的根拠というものが、実証されていないようで、各種の本が出ているが、科学的な裏付けはないとされている。
ある意味、
「ものは考えようだ」
といってもいいのかも知れないが、それも悪いことではないといってもいいだろう。
少なくとも、
「ネガティブにばかり考えているよりもマシだ」
といってもいい。
そもそも、
「ネガティブにばかり考え始めると、徹底的に、悪い方にしか考えない」
というのは、昔から言われていることだった。
「どこまで行っても、悪いことばかり。だから、うつ状態にも陥るのであろう」
と考えられる。
「うつ状態だから、悪い方に考えるのか?」
それとも、
「悪い方に考えるから、うつ状態になるのか?」
これは、神経内科の分野から見れば、その答えは分かり切っていることなのかも知れないが、
「気の持ちようだ」
ということなのかもしれない。
ことわざにだってあるではないか?
「病は気から」
というように、それが真理ということであれば、
「悪い方に考えるから、うつ状態になる」
といえるだろう。
しかし、うつ状態が、実はその人の中に巣くうようになり、その人の性格として位置づけられてしまったら、その時点からは、
「うつ状態だから、悪い方に考える」
ということになる。
それがうつ状態ということの継続性というものであり。
「落ち込んでいくようになると、その状態から抜け出すということは、難しいといえるのではないだろうか?」
このようなうつ状態だから、
「うつ病だ」
という判断で片付けるわけにはいかない。
というのは、同じうつ状態であっても、病気は、うつ病だけではない。
「うつ状態になる時、その前に躁状態というのが、存在していて、この二つが、周期的に繰り返すことになる」
といわれる、いわゆる。
「躁うつ病」
と呼ばれるものがある。
今では、
「双極性障害」
という言葉で呼ばれているのだが、それは、
「うつ病:
のそれとは、まったく違っているといってもいいだろう。
しかも、
「躁状態からうつ状態、そして、うつ状態から躁状態」
と、まったく逆の作用に、いきなり飛ぶのだから、その距離は、ハンパではないといえるだろう、
そうなると、
「プラスからいきなりマイナス。マイナスからプラスになる」
というわけで、忘れていけないのが、
「その間に、ゼロと通る」
ということだ。
ゼロというのは、無限である、
「限りなくゼロに近い」
という発想を裏付けるものとしても考えられるということは、
「双極性障害」
というものを、
「無限ではない」
と考えるのと同じように、
「引き寄せの法則」
というのは、どうなのか?
と感じてしまうのだった。
「無限という言葉は、どこまで行っても、限界がない」
ということなので、
「引き寄せの法則」
というものには当てはまらないといえるのではないだろうか?
なぜなら、その発想というのは、
「そもそも、引き寄せの法則というのが。純粋なエネルギーの存在に裏付けられるものだからだ」
ということからきているのではないだろうか?
そんなことを考えていると、結果、最初の考えに戻ってきたりするものである。
大団円
「無限と無限大の関係」
というものを考えたことがあった。
どちらも、
「限りがない」
という意味では同じようなものだという解釈ができるだろう。
しかし、厳密にいえば、少し言葉としてのニュアンスが違っている。
「無限大というのは、特に大きさについて語る」
というものであり、
「無限というのは。数量やその程度について語るものだ」
という発想であった。
そう考えると、
「学問として考えた時、数学的な発想が、無限大というもので、物理学や化学という方向へと考える場合は、無限という言葉を使うといってもいいかも知れない」
といえるだろう。
だから、
「無限大というものが、数量であるとすれば、無限が質量」
といってもいいだろう。
「数と質」
ということを考えると、どちらの方が、考えやすいかというと、無限大の方であろう。
ただ、考えやすいというだけで、その発想に、少しでも限界を感じると、その先に進まなくなってしまうといえるのではないだろうか?
だから、無限というものは、あくまでも、数列というものの羅列だと考えると、その先に見える無限にこそ、何かの限界があるのではないか?
という発想であった。
だが、数学というのは、ある意味分かりやすいところがあり、
「補助線を引くことで、分かりやすくなる」
という発想が芽生えてくるというものであった。
それは、
「面積を求める時などに使われるやり方で、そこには、れっきとした大きさというものが証明されることになる。
だから、補助線のように、分かりやすいものを使って、その無限大というものも、どこか証明できる何かが存在していると考えれば、
「一度行き詰ったとしても、そこから先の突破口というのは、分からないわけではないだろう」
という意味で、
「架空数値」
あるいは、
「虚空数値」
といってもいいのではないだろうか?
実際には、無限大には、∞という形で表されるものだということであるが、それが複数存在し、それぞれに、存在意義があると考えると、いずれは、証明されることもあるであろう。
物理学においても、
「質量」
という考え方であるが、これは、昔からの学者が考えてきた。
「不変の法則」
などという数多くの定義で、かなりのものが証明されていきている、
実際に、
「数学との関係」
ということになると、難しいという発想も、当然のごとくにあったりする。
しかし、数学における。
「無限大」
という発想のように、楽天的に考えることは難しいのではないか?」
と考える。
つまりは、
「数学であれば、引き寄せの法則が成り立つのかも知れない」
というのは、
「補助線のようなものの考え方があるからだ」
ということになるのであれば、そういう発想のない物理学では、どのように引き寄せの法則のようなものを解釈すれば分からない」
というものであった。
そこで、りえは、別の考え方を持っていた。
その発想というのは、あくまでも、
「虚空物理学」
と自らで名付けた。
普段から見えている物理学というものが、現実のものであり、りえの考えている発想は、さらに漠然としたもので、
「虚空」
あるいは、
「架空」
とまで言っていいものであった。
普段から、自分が描くとすると、そこにあるのは、
「フィクションでしかない」
という発想に近いものだといえるであろう。
数学における、
「補助線に近い」
というものを、考えたのが、物理学における、
「プラスアルファ」
のようなものだといえるのであった。
これは、元々、りえの中にあった、
「耽美主義」
という発想からくるもので。
「耽美主義」
というのは、