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都合のいい無限理論

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 高校時代の先生の中には、大学受験と真剣に取り組んでいながら、時々戒めのつもりだったのか、
「大学というところは、自分がしっかりしていないと、フラッとレジャーランドのように感じる方に行ってしまって、今の努力が水の泡になりかねないこともあるから、そこだけは、肝に銘じるように」
 といっていたのだ。
 もちろん、受験生に、
「そんなことを言われても」
 と思って、困惑されるのがオチだったのだろうが、先生としては、
「これだけはいっておかないといけない」
 という思いがあったのは、間違いないことだったのだろう。
 それを考えると、
「私は、何とか、レジャーランドにはいかなかったけど、その誘惑らしきものは、いくつかあったよな」
 と感じた。
 確かに、一つだと決まっていれば、意識さえしていれば、そこを乗り越えることで、事なきを得るといえるのだろうが、、実際に、そうではないということになると、
「そんなに簡単なものではない」
 と思えた。
 特に、3回目を感じた後くらいからだったが、
「こんなのが、無限に続いたら、たまらないよな」
 ということで、レジャーランドどころか、大学というところは、
「底なし沼のような、誘惑が潜んでいる」
 という、悪魔の住むところではないか?
 と感じるようになったのだ。
 しかし、それも、三度目を超えた時、自分の中で、
「次が来ても自分は大丈夫だ」
 という自信が芽生えたのだった。
 これは、自分は3回目だったが、人によっては、2回目かも知れないし、4回目かも知れない。
 つまりは、
「個人差がある」
 ということになるというものだ。
 大学時代の最初の難関を乗り越えたが、そこから先は、誰からも何も言われていない。
 逆に言われていることを乗り越えると、確かに自信というものが出てくるのだが、それ以上何かが出てくると、乗り越えられる自信というものが、どこかないような気がした。
「足りないとすれば、何が足りないのか?」
 ということを考えると、
「そこに答えがあったではないか?」
 ということに気づいたのだ。
 それを気づかせてくれたのが、
「文芸サークルにおける、小説を書ききる」
 ということであった。
「書ききるということに、自分が何を得たのか?」
 ということを考えると、
「自信であった」
 ということに違いはなかったが、それともう一つが、
「覚悟」
 というものだった。
 それを思い出すと、それ以降の大学生活の中で、
「予期せぬ出来事が起こったとしても、それをいかに乗り越えていくか?」
 という指標がどこにあるのか? というと、それは、
「覚悟である」
 ということだと分かったのは、逆に、
「まだ、書ききったことがない」
 といっている人を見ることで、その人が、自分にとっての、
「反面教師だ」
 ということに気づいたからだった。
 反面教師というのは、いつの時期にとっても必要であり、自分がその存在に気づいているかいないかは分かっていないが、実際にいるということが分かってしまうと、
「そこで、覚悟というものを知ることになる」
 と考えるのであった。
 ということは、反面教師というのも、そうであるが、
「覚悟というものも、複数あったとしても、それはおかしなことではない」
 といえると感じたのだ。
 逆に、
「覚悟というものをたくさん持っていれば持っているほど、無限に存在する自分の可能性に対応できるだけの自分というものを形成できるのではないか?」
 と感じるのであった。
 小説を最初は、
「たくさん書きたい」
 という思いと、
「認められる作品が書きたい」
 という思いが交錯していた。
 それはやはり、最終的に、
「小説家になりたい」
 という思いがあったからに他ならないわけだが、
 だからといって、ずっと、その思いを抱き続けるというのは、思っていたよりも、難しいことであった。
 というのは、
「たくさん書きたい」
 という思うと、
「認められたい」
 という思いとが、どこか相対性のようなものだと感じるようになったからだ。
 たくさんの小説を書いていると、
「書いている時に、たくさんの可能性が広がっている」
 ということを感じながら書いている時というのは、無限に発想が生まれてくる気がしたのだ、
 それこそ、
「しゃべっているように書ける」
 と思うようになっていて、そうなると、
「たくさん書く」
 ということに関しては、さほど難しいとは思わないが、これが、
「認められるものかどうなのか?」
 ということは分からない。
 そもそも、認められるというのはどういうことなのか?
 それは、小説家になるということであり、それは、
「書きたい小説を自由に書けるわけではない」
 ということを示していた。
 プロになるということは、もちろん、商業化されるものを作るということであり、
「自分が書きたい小説」
 あるいは、
「得意分野」
 というのが、ブームであったり、時代に乗っかった作品というわけではない、
 しかし、さすがに、SF小説家に、
「恋愛小説を書いてくれ」
 という依頼がいくわけではない。
 そんな依頼をしても、できるわけではないことは、もちろん、業界も分かっていることであろう。
 それくらいなら、最初から、
「恋愛小説のプロに頼む」
 というもので、それ以外の作家は、自分のジャンルでしか勝負はできないということになるので、結果として、
「いずれ焦ることになる」
 といってもいい。
 野球選手で、バッターが、
「相手に、自分の苦手なコースばかりを攻められるので、苦手克服ということで、克服の練習ばかりしていて、結果、自分のバッティングフォームを崩す」
 ということは、ありがちなことであった。
 確かに、苦手克服は、プロとしてはしなければいけないだろう、
 かといって、「そればかりを優先してしまうと、せっかくの得意なコースを打つという、自分にとってのアピールポイントがなくなってしまうというのも事実であった。
 要するに、
「プロ選手が、自分の個性というものをなくしてしまうと、特徴のない、いわゆる、器用貧乏な選手になってしまい、結果、中途半端に終わる」
 ということになる。
 せっかくプロになったのに、
「そんな選手いたっけ?」
 というほど、印象に残らないという選手であれば、
「アマチュアのままの方がよかったかも知れない」
 という人も少なからず、いたであろう。
「目立てばいい」
 というわけではないのだが、
「せっかくなったのだから」
 という気持ちが強くないといけないと思うのは、何かの、
「引き寄せの法則」
 というものではないだろうか?
 そもそも、引き寄せの法則というのは、
「純粋なエネルギーの存在による、ポジティブ思考」
 というものであり、
「同種のエネルギーが、同種のエネルギーを引き寄せる」
 ということのようだ。
 だから、同じようなポジティブな考え方の人が、さらにポジティブな人を引き寄せて、さらに大きなエネルギ^となるというような、
「どこまでも、ポジティブな考えであった」
 さらに、
「ネガティブな発想をも凌駕する」
作品名:都合のいい無限理論 作家名:森本晃次