都合のいい無限理論
「モラルや倫理に基づくことのないものとして。美を最優先として考える学問であったり、表現だったりする」
というものであった。
つまり、たとえば、探偵小説などの中で、いわれる前述の、
「変格派」
と呼ばれる小説で、
「猟奇殺人」
であったり、
「異常性癖」
と呼ばれる、聞いただけで、耳を塞いで、目を覆いたくなるような言葉であっても、それらであっても、
「美という要素」
があるとするならば、それは立派な耽美主義だということになるのだった。
「プラスアルファと補助線はどこか共通点があるのだろうか?」
ということであるが、
補助線というのは、数学あるいは、そこに図形というものが絡んでくると、見えていないだけで、実際にはそれが表れているという発想であった。
「プラスアルファ」
というものも同じ考えで、
「見えていないが、実際にはそこに存在しているもの」
といえるのではないだろうか?
それが、人間に対して
「都合のいい存在」
という発想からくるものが、一種の、
「妖怪」
であったり、
「幽霊」
というものの存在だといえるのではないだろうか?
それらは、
「人間に対して都合よく考えるための、超自然現象というものに対しての、一種の答えのようなものだ」
と考えると、それはあくまでも、
「人間の発想のプラスアルファだ」
といえるのではないだろうか?
それを考えると。
「幽霊や妖怪の存在というのも、人間にとって、都合よく解釈するためのものだ」
といえるのではないか?
自然現象に対しての都合が、
「幽霊であり、妖怪」
なのだ。
「幽霊というものは、主に。人間の魂であったり、先祖の守護、さらには、恨みをもって死んだ人間が、この世でさまよって、復讐を企てている」
と言われるものである。
「妖怪というと、人間の魂以外のものが、建物や別の動物に憑依することで、人間に何かを訴えたり、その存在を示したりするというものである」
と考えると、
「幽霊の方が、たちが悪いかも知れない」
といえるのではないだろうか?
妖怪であれば、その存在を示しているだけで、人間に攻撃的なものが少なかったりするだろう。
しかし、人間がかかわっている幽霊であれば、
「同じ種類なだけに、幽霊の考えが分かるというもので、怨念などが終着していたりすると、乗り移られたり、下手をすると、本人の命が危うくなってしまうことだってあるということだ」
それを思うと、
「人間ほど恐ろしいものはない」
と言え、その際に、その恐怖が無限に続くということを考えると、
「無限というものは、本当に恐ろしいものだ」
といえるのではないだろうか?
それが、
「補助線というものなのか、プラスアルファなのか、下手をすれば、どちらも、人間にとっては、必要のないものではないか?」
といえるだろう、
補助線というのは、
「学問には必要不可欠なものだ」
と考えると、ある意味、
「これほど恐ろしいものはない」
という考えが浮かんでくるのではないだろうか?
下手をすれば、
「学問は、本当に必要なのだろうか?」
とも思えてくるが、
「学問というものは。人間の向上に必要なもので、あるのは、間違いないだろうが、そrを不可欠と考えると、どうしても、無限という発想になってくる」
人間にとって、無限や無限大というものを証明することはできない。
特に数学などのように、整数が、きちんと刻まれた数字によって、作られているというもので、それが、実際には、
「時系列」
というものにも結び付いてくると考えると、
「その先にある別次元」
としての時間軸を考えた時。最終的に行きつく先は、
「無限という発想であろう」
そして、人間には、無限というものが、必要なのかどうか?
と考えれば、
「決して必要ではない、そうでなければ、寿命というのもないはずだから」
といえるかも知れない。
だが、
「人間、寿命というものがなかったら、どうなるであろうか?」
ということを考えると、
「いつまでも生き続けるのであれば、それでも、生まれるという行為が繰り返されるのであれば、ただ、増え続けるだけになる」
そうなってしまうと、
「自然の摂理」
あるいは、
「輪廻転生」
などという、仏教思想からであろうが、当たり前のように語られていたことも、実際にはありえないことになってしまう。
これも、結局、
「無限ではない世の中を証明する意味で、考えられたことであり、人の死というものを厳かに感じるようになったからであろう」
もっといえば、
「幽霊の存在といってもいい、魂だけの存在である、怨霊の正体は、自然現象を証明するための、一種の都合のいい発想である」
といってもいいだろう。
そんなことを考えていると。
「プラスアルファというものは、組み合わせによってこそ、力を発揮するものであり。その発想は、限界の先にあるものではないか?」
というものであった。
さらに考えられるのは、
「無限の先に無限というものが、果たして存在するのだろうか?」
というものであった。
「無限の先の無限」
「その間に、プラスアルファというものが存在するとすれば、プラスアルファであったり、補助線のようなものも、無限と同じではないか?」:
という発想であった。
りえは、その発想を思いついた時、ひき逃げに遭った時の、
「罪状の発想」
を思い出した。
こちらは、最後には都合よく、事を治めるということに繋がってくるのだとすれば、
「無限というものが、都合のいいという発想と、切っても切り離せない」
という関係にあるといって過言ではないだろう。
そう思いながら、小説を考えていくと、いくらでも、発想が浮かんでくるというものだった。
「一気に数作品のプロットが、同時に書けそうだ」
というくらいに感じられ、その正体が、都合のいい発想ということだった。
無限にかかわる話というものが、結局、
「都合のいい発想」
となると、この先にあるものが、
「交わることのない平行線が究極の考えだ」
と思えるようになってくるのだった。
やはり、最後まで都合のいい発想が重なって。最後には答えが見つかる。それが、
「限界否定説」
であるというのは、実に皮肉なことに違いない。
( 完 )
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