都合のいい無限理論
という感覚がないということが、どれほどの心地よさを与えてくれるかということが分かったからだった。
だから、りえは、友達の話を聞くのが好きだったし、
「いずれは自分もあんな風になれたらな」
と考えるようになっていたのだった。
「それって、限りなくゼロに近いものということなのかしらね?」
と聞くと、
「そうそう、まさにその通り。だから、今あなたが不思議に思ったのが、今あなたが感じた。限りなくゼロには近いけど、ゼロになることはないと感じたことと、プラスのマイナスの間には、絶対的なゼロというものの存在を考えたからなのよね、つまりあなたは、今までゼロを何もないものとして意識をしていた。だから、合わせ鏡のような発想だと思うのよ。そして、それが未来に対してのプラス思考になるのよね、あなたは、マイナスを過去と重ね合わせてみているから、過去は変えられないというもので、勉強はできるけど、直接変えることができないということを分かっている。だから、私が言ったマイナスという思考に違和感を感じた。今まで感じなかったことだからね。でも、それは、あなたが、意識して感じなかっただけで、その存在は分かっていた。だから、ゼロという発想も分かっている。だけど、それを認めると、自分が考える、無限というものを自らが否定することになり、それは許せなかった。それがあなたのジレンマとなり、あんな、苦虫をかみつぶしたかのような顔になったんでしょうね」
と友達は、まくし立てるように言った。
それも、先ほどよりも、どうかすれば、興奮度は高かった。それは、鼻息の荒さというもので分かるといってもよかったくらいだ。
「私にもその発想が分かる気がするわ。確かに、マイナスと過去を重ね合わせていたというのは、言われて初めて分かった気がするんだけど、本当にそうなんだろうか? それを思うと、今まで感じていたかも知れない、マイナスという世界を、今一度覗いてみたい気がするのよ」
というと、友達は、今度は冷静に、いや、冷酷に聞こえるほど声のトーンを低くして、
「あなたは、やっぱり一度マイナスの世界というものを見たことがあるのよね?」
というので、
「いつのことだったのか分からないんだけどね」
というと、
「それは、分からないのか、それとも意識して分かっていないつもりでいるのかは分からないけど、あなたが、それが夢だったということで片付けようとする自分がいるのを分かっているんでしょうね。確かに、夢ということで片付けてしまうと、これほど気が楽なことはないといってもいいでしょうからね」
と友達の声は、まったく震えていなかったのだ。
「まるで、地獄の底から話をしているかのようだった」
と思えてならないからであった。
実際に、りえを轢いた人は、しばらくしてから捕まった。その人は、年齢的には30代の男性で、事故があってから、数週間での逮捕となった。
事故としては、悪質なものだったので、新聞にも、テレビのニュースにも、実名入りで報道された。
もちろん、地元のニュースとして、少しだけ載っただけなので、関係のない人はすぐに忘れていったようだが、その男の人生は、ほぼ終わったといってもいいかも知れない。
会社は首になり、近所でも、噂になり、引っ越さなければいけなくなった。
奥さんから離婚され、子供の養育費と、奥さんに対しての慰謝料も取られることになった。
踏んだり蹴ったりとは、まさにこのことで、
「あの時、ちゃんと警察に通報さえしていれば、最悪、保険で何とかなった問題なのかも知れない。
実際に、被害者はぴんぴんしているのだから、下手に出ていれば、保険会社の方で、ある程度はうまく交渉してくれたはずだ。
それを思えば、その場から逃げたことがいかに、ひどい行為だったのかということが、あらためて思い知らされるということだ。
それを思うと、
「あの時に、戻ることができれば」
と思いたくなるのも、無理もないことだろう。
しかし。
「過去は変えられない」
という言葉も、本当で、ただし、その後には、
「未来は変えられる」
というではないか?
要するに問題は、
「その男がこれから、どのような人生を送るか?」
ということである。
一度犯罪を犯した人間は、また引き起こすとも言われているが、この男は、どうだろう?
犯罪の種類としては、同じような犯罪としては、
「性犯罪者」
「暴行、傷害」
さらには、
「薬物関係の取締法違反」
などというのは、かなりの高い確率で再犯するという。
しかし、このひき逃げ男のような場合はどうだろう?
裁判では、有罪ではあったが、執行猶予がついたので、まだ、マシだったということであろうが、その代償の大きさに、しばらくは、立ち直れなかった。
もっとも、それくらいの犯罪だったわけで、いきなりの懲役を食らわなかっただけでもよかったというものだ。
仕事の方も、裁判が結審してから、少しして決まったようで、少しずつ、
「社会復帰」
というのができてきたようだ。
果たして、この男にとっての未来は、変えられるのだろうか?
未来を変える
りえにとって、この男がどうなろうが、もう結審したのだから、どうでもいいことだった。
だが、りえが、大学に入学してから、少しして始めたアルバイト先に、偶然であったが、その男が働いていたのだった。
もちろん、事故から7年経っているので、いまさらのことであった。りえも、相手もそんな因縁が自分たちにあったなど、知る由もなかった。
りえも、あの時の事故は、
「ただの交通事故だった」
という認識が強い。
あの時は、
「ひき逃げなんて卑怯な」
と思っていたが、きちんと、捕まって、裁判にかけられ、結審したわけなので、もう、いまさらこだわることもない、
その時の犯人としても、自分の中では、
「事故は仕方がないが、放置して逃げたことが悪かったのだ」
という認識は持っていた。
ただ、そのわりに、失ったものが大きすぎたという意識が強く、
「理不尽だ」
とも思ったが、実際に溜飲が下がってみると、自分が悪かったという意識もあり、離れていった人たちに、いまさら、何の未練もなかった。
「薄情な連中だ」
という意識はあるが、
「これも、仕方のないことだ」
という意識がないわけではないのだ。
りえは、大学に入ると、
「文芸サークル」
に入り。小説を書き続けていた。
中学時代から、少しずつ書いていたが、高校時代には、さすがに大学受験というものが控えていたので、ほとんどできないでいた。
それだけ高校生活のほとんどを、大学受験に使ったといってもいい。
そんな状態で、高校時代を送ってきたので、大学に入ると、一気に気持ちも解放され、
「友達をたくさん作って、大学生活をエンジョイしよう」
という夢を抱いていた。
大学に合格し、やりたかった、小説執筆ができるように、文芸サークルのも加入した。
だが、りえは、どちらかというと、欲深い方ではない。普通であれば、
「いろいろな新人賞に応募して、いずれは、物書きになりたい」
とまでは、思っていなかった。