都合のいい無限理論
そこに滑り落ちるくらいであれば、受け身さえしっかりしていれば、
「大きなけがに繋がることはない」
と思えた。
しかし、りえは、次の瞬間に、
「熱い」
という思いを感じた。
その熱さは、身体の間隔を一瞬、マヒさせるようなもので、次第に、意識が薄れてくるのを感じた。
その時、身体がちぎれるかのような痛みを感じたと思ったのだが、一瞬のことで、自分でも分かっているわけではなかったのだ。
痛みのその強さを感じると、
「熱さというものが、この痛みから伝わってきたものだ」
と感じた。
だから、感覚がマヒしてきたのであって、元々の、
「痛みのメカニズム」
というものを、その時理解できていたと感じたのだ。
だが、気が付けば、一瞬にして意識を失ってしまっていたようで、気が付けば、病院のベッドの上だった。
りえが気が付くと、ベッドの脇には、心配そうに見つめている良心がいた。目が合った瞬間、安心した表情になったのが分かったのだ。
「お母さん」
と、りえは、両親ともいたにも関わらず、母親の方しか見ていなかった。
「やっぱり、お父さんはいつも家にいないから」
ということを気にしていたようで。母親は、りえが帰ってきた時には家にいたのだった。
母親は正社員で働きに出ていたが、帰りの時間は、いつも結構早い時間にしてもらっているので、帰りついた時間というのは、いつも、りえよりも早かった。
といっても、最近では、学習塾に行っているのは、週に三回あるので、その曜日だけ、っ残業をしているようだった。
そしていつも帰る時間が分かっているということで、それに合わせて、母親も帰ってきているようだった。
父親の会社は、就業時間に容赦はないようで、下手をすれば、りえが寝静まってから、帰ってくることも多く。さすがに、母親も待ちきれなくなって眠ってしまうことが多かったので、食事だけを一人で食べている父親がいたのだ。
それを見て、
「そんなにまでして頑張ってくれているんだ」
と思っていたのだが、実際には、毎日が残業というわけではなかったようだ。
確かに、週に2回くらいは残業があったようだが、それ以外は、同僚と飲んで帰ったりしていたようだが、それでも、
「日数が合わない」
と、母親は思っていて、ここまでくると、さすがに、りえにもその理由が分かった気がした。
母親もそう思って洗濯ものとかをチェックしていたようだが、
「ああ、やっぱり」
ということうぃ自分でも分かっていたようだ。
「そう、これは完全に浮気であり、不倫というものなんだ」
ということを、りえも分かっていた。
りえも気にしていたので、父親の行動パターンが分かるようになっていた。その日は、ちょうど、浮気相手のところに行っているという日のはずだったので、電話か何かで緊急連絡があって駆け付けてくれたのだろう。
そういう意味では、
「感謝をしている」
と感じるのだが、それ以上に、
「許せない」
という思いが日ごろからあったせいで、いまだに自分の頭の中が混乱しているのであって。そのせいで、余計にしh地親が憎たらしかったのだ。
だから、父親の顔を見ることをせずに、
「この際だから、思い知らせてやろう」
と思ったのだ。
りえは、女なので、母親の味方だった。
というよりも、
「自分がされて嫌なことをするのを、本末転倒だ」
と思っていたので、
「母親を苦しめる父親を、許せない」
という思いが強かった。
しかし、この感覚は、
「勧善懲悪」
という感覚とは違うもので、もっと、
「生理的なもの」
という感覚で覚えていた。
つまり、
「不倫というのが汚いもの」
という感覚を絶えず覚えていて、その思いが、父親に対して強く持っていて。
中学生になってから、クラスの男子に対して、あまりいい気持ちを持てないという理由だった。
クラスの男子というと、いつも、自分たちを、いやらしい目でしか見ていないと思い込んでいた。
それは、りえも、
「思春期の真っただ中」
ということであるが、それだけではない。
「男子も真っただ中だ」
ということであり。
「男も女も真っただ中」
ということであれば、
まるで、磁石における。
「S極とS局であれば、反発しあう」
という感覚に似ているように思えたのだ。
反発しあう力の強さは、
「自分の思春期の力に、さらに相手の力が加わる」
ということで、自分の思春期の力というのも、
「たいがいなものだ」
と思っていた。
さらにそれ以上の力となると、距離がどんどん離れていかないと、耐えられないということを示しているかのように思うのだった。
りえは、それを、
「男女の間の関係って、そういうものなのかも知れない」
と思った。
もちろん、これは、
「思春期だからだ」
と感じるからであって、その証拠に小学生の頃の、異性をまったく異性として意識していないという時期であれば、まったく、そんな距離を感じることもなかっただろうと思うのだった。
そもそも。小学生の頃は、男女の意識はほとんどなかった。
なかったというのは、ウソであるが、それは意識したといっても、無意識に近いというくらいのもので、
「自分が男性だったとしても、別に」
としか思わないと感じるほどであったのだ。
りえは、まったく意識していないと思った男子の中でも、仲が良かった男の子がいた。
その子は、りえと一緒にいて、
「楽しい」
と言ってくれたことが、りえにとっては、この上ない悦びだった。
それは、相手が、同性である女性からでも、同じ感覚ではなかったかと思うのだが、
「私は、いずれ、男性を好きになるのかしら?」
と感じたほどだった。
実際に、中学生になって、
「気になる男の子」
というのは、いるにはいるが、
「好きだ」
という感覚はなかった。
むしろ。
「好きだ」
というよりも、
「気になる」
という思いの、
「それ以上でもそれ以下でもない」
という感覚だったのだ。
「これが、中学時代だから、そうなのだろうか?」
と感じた。
確かに思春期というのは、
「大人の階段を上る時」
という、まるで歌の文句のようなセリフを、いやみなく聞けていたように思えたのだった。
ただ、思春期というのは、
「嫌なことも、まともに受け入れてしまう時期だ」
ということで、いい意味でも悪い意味でも、
「大人の階段を上っている」
ということだった。
だから、楽しいと思う時もあれば、辛いと感じる時もある。この感情が、自分の中での、「ウソがつけない」
という思いになるのだろう?
と、りえは感じているのだった。
りえというのは、中学に入ってから。身体の発育に、必要以上敏感だった気がする。
胸が膨らんできた時に感じたのが、
「母乳が出るかも知れない」
と真剣に思っていた。
「子供ができたわけではないので。母乳が出るなどということはありえない」
ということを分かっているはずなのに、
「意識が強すぎると、そんなことだってあるかも知れない」
と思っていたのも、事実だった。
実際に、何かの医学書で、かつて、