都合のいい無限理論
それが、人間とロボットの間の、
「絶対的な結界」
だということになるのは、無理もないことであろうか?
りえは、そんな田舎道を、いつものように、自転車で走って家に帰っていた。
その時、
「怖い」
という感覚がいつものようにあったはずなのだが、いつも、怖いと思っていても仕方がないと感じていたからなのか、次第に、恐怖を感じなくなっていった。
恐怖を感じないといえばいいのか、恐怖が襲ってこないのだった」
恐怖は恐怖として感じるのだが、その感じ方が恐怖ではなく、慣れ切ってしまったことで、逆に、何かを感じることがあり、それが、自分の中で、
「虫の知らせ」
のようなものとなっているのだった。
その日も自転車をこぎながら、後ろが気になっていた。いつものように、そんなに車の数が多いわけではないのだが、車が少ないことで、安心するどころか、その日は、気持ち悪さを感じるのだった。
いつもの道は、一直線であった。昼間、その道を歩いていると、遠くの方に見えるスーパーを目指して歩いているのだが、近づいているはずなのに、まったく、近くにいるという感覚がない。
感覚というよりも、
「気配」
と言った方がいいのだろうか。
歩いているその道が、まるで、吸い込まれていくように思えるのだった。
「そのくせ、近づいているような気がしない」
というのは、どういうことなのか?
りえは、いつもそんなことを感じていたのだ。
そして、ある一定の場所までくると、
「あれ?」
と感じるのだった。
さっきまで、遠くの方にあったスーパーが、急に目の前に見えるようになると、
「これは錯覚だ」
と思うようになる。
「さっきまで、なかなか近づかなかったはずの道」
そして、
「今度は、目の前に迫って見えるスーパーが見える道」
どちらも錯覚のように思え、どちらも正しいように見える。
そして、どちらかが錯覚だという感覚になることはない。
こんな中途半端な状態こそ、錯覚の正体だと感じるようになっていたのだ。
途中から、急におかしな感覚になるのは、
「そこに結界というものがあるからだ」
と、りえは感じるようになった。
その結界を感じながら歩いていると、スーパーまでついた時、一気に疲れが噴き出すのだった。
最初はそこまで汗を掻いているつもりはなかったが、一気に噴き出した汗のために、身体のだるさがたまらなくなると思いきや、その汗が心地よく感じられ、そのきつさを感じないのが、
「疲れを感じさせるわけではないのかも知れない」
と感じるのだ。
疲れというのは、慣れがあるかどうかで変わってくる。毎日同じ道を同じように歩いていると、慣れてくることで安心感があるのだろう。
たとえその道が、危険な道であっても、
「いつも通っている道なのだから、恐怖を感じることはない」
という思いが、慣れから、安心感につながるというのか、ただ、考えてみると、これほど、
「危険極まりないものはない」
といえるだろう。
感覚が勝手に、自分の中で恐怖を呼び込み、その恐ろしさを、感じさせない。
それは徒歩の時だけではなく、自転車の時も同じだった。
もちろん、暗い道の対策も行っていた。肩からたすきのようなものを掛けて、それが、車のヘッドライトに照らされて、光るような、蛍光塗料を塗ったものだったのだ。
暗い時間帯であれば当たり前のこと、その日は、夕方の時間で、季節的には、秋だった。
日差しは背中から当たっているので、東に向かって走っている。
これは、りえが方向音痴だということも手伝ってか、気が付けば、どっちに向かっているか、分からないという錯覚に陥る。
まるで、ツバメの子供のように、
「最初に見たものを、親だと思う」
という感覚に似ているというのか。
「初めてこの道を通った時に、感じた感覚が、自分にとっての、その道の光景と同時に、方角として認識されてしまった」
ということである。
「方角を違って覚えるくらいは、別に問題はない」
と思っていた。
別に毎日通っているところだから、意識の中で違っているだけで、
「そんなものだ」
と考えれば、困るということはない。
だから、気にすることもなく、自分が感じているだけのその道を、毎日通うだけだったのだ。
そんなことを考えていると、
「道というのは、そんなに、意識を深く持つ必要はない」
と感じた。
特にここのように、まっすぐに続いている道だから、余計に、必要以上のことを考える必要もなく、変に考えてしまうと、却って恐怖が募ってくるものだと思っていた。
背中から夕陽が当たっているということは、自分の影が足元から伸びているのが分かる。そして、それを意識して見ていると、
「今日の影はいつもに比べて長い」
と思うと、
「さらにまっすぐに伸びているその先ばかりを意識していたのだが、不意に自分の背中に、太陽の光を遮るものが、襲い掛かってきていることに気づいた」
といっても、後ろを振り向くわけにはいかない。バランスを崩して、却って、そっちの方が危ないというものだ。
その時、いつにない恐怖を感じた。
ここちよいはずの汗が、ゾッとするような寒気を感じさせるのだ。
「こんな思いを感じたことなどなかったはずだ」
とりえは感じたが、それが、
「恐怖というものだわ」
というのを思い出すまでに少し時間が掛かった。
というよりも、そもそも、その時に、時間が経つのに、ゆっくりであるということを分かり始めていた。
この思いは、以前にも感じたことがあったような気がしたが、それがいつだったのかまでは思い出せない。
ただ、その記憶がハッキリしないことで、
「初めて感じるはずなのに」
という、
「デジャブ現象」
というものを感じていたようだ。
自分が、この、
「デジャブ現象」
というものを感じるのは、その時が初めてだった。
だから、それからずっと、
「初めて、デジャブ現象というものをいつ感じたのか?」
ということをハッキリと思えているのだろう。
もし、自分が、
「ひき逃げをされた」
と最初に感じた時があったとすれば、それがこの時だったと感じるのではないだろうか?
罪状
そう、中学のあの時、
それをハッキリと覚えているのは、
「その後、自分の身の上に何が起こったのか?」
ということが、分かっていたからに違いない。
「私が初めて感じたデジャブ」
というものほど、印象深かったデジャブはなかった。
それ以降でも、何度もデジャブを感じたのだ。
それも、定期的に、そして、頻繁にであった。
「これを、堰を切ったかのように」
という感覚だというのだろう。
ということを、りえはか案じていたのだ。
その日、りえに起こった身の上というのは、本当に自分の中で一瞬だった。
前述の、黒い影が自分に襲い掛かったということであるが、それが車だったのだ。
「あっ」
という悲鳴を上げたような気がする。
最初は、自転車のバランスを崩して、道からはみ出してひっくり返るんだろうと思った。その先にあるのは、小さな土手から先に見えている田んぼであった。