夢による「すべての答え」
子供の頃のことだったので、意識としては、分かる気がするが、きっと、自分でも気づかなかったが、ナルシストだったのではないか?
と思ったのだ。
ナルシストというのが、どういうことなのか、言葉だけ知っていたのだが、それを中学時代のかすみは、
「プライドのようなものだ」
と思っていた。
それは、
「当たらずとも遠からじ」
であり、
「ナルシストが、自己愛の強い感覚だ」
と理解するようになると、自分の中にナルシストの存在を感じたのは、それまで見ていた母親の中の、
「あきらめの境地」
からだった。
それまで母親に対して、
「どこか、納得のいかないところがある」
と思っていたが、それが、どこなのか、正直分からなかった。
というのも、
「何か分からないが、イライラくるところがある」
と思ったことだった。
何か、煮え切らないところがあり、子供の自分に対しても、強くは言っているのだが、根本的に、説得力がない。
そこに、
「自分に対しての自信がない」
ということなのだと感じたのは、まさに、そんな意識からだったのだろう。
それを考えてみると、
「人間というものが、どういう意識から、自分に自信をなくすということになるのかということを考えてみたが、さすがに中学生では分からなかった」
しかし、親の家系が、
「華族の家系だ」
ということに気づいた時、母親は、
「まるでうろこが落ちたかのように、あっという間にその理屈が分かったのだ」
という。
「そっか、だから、すぐにあきらめるんだ」
と感じると、
「自分の子供には、プライドを持った形の姜郁をしよう」
と思ったようなのだが、大人になると、その思いが次第に薄れていくのか、ほとんど、子供の教育を厳しくするということはなかった。
ただ、子供、つまり。かすみが、あまりにもいうことを聞かない時は、怒りをあらわにし、そんな時は、
「華族の家系なんだから」
と思わず口にするようになっていたのだ。
最初こそ母親は、その言葉を発した時、
「いうんじゃなかった」
というそぶりを見せているようだが、その後には、
「口に出したものはしょうがない」
と思うようになり、その思い出が、あることで、思春期になった自分が、女の子らしくなることに、最初はジレンマのようなものがあったが、
「女性らしくすることで、華族のプライドなど、消し去るくらいになればいいんだ」
と思うようになっていた。
だから、それまで、ほとんど見ることもなかった鏡をよく見るようになり、鏡の中で、微笑んでいる自分を、
「もう一人の自分だ」
と思うようになった。
なぜなら、鏡を見ながら、
「私は鏡に向かってほほ笑むなんてことはないからだ」」」
と感じたからだった。
「それが、プライドと、自分の中にある天邪鬼との間のジレンマなのだ」
と、かすみは感じたが、その感情が、
「マイナスとマイナスを掛け合わせて、プラウになった」
という気持ちのようなものだと感じていたのだった。
そんな夢を、子供の頃に見ていたというのを、中学時代に思い出した。
というのも、
「自分が夢を見ることにパターンがある」
と感じるようになったのは、ちょうど中学の時で、
「一番怖い夢がどういう夢なのか?」
と感じるようになったのも、ちょうどその頃だったのだ。
中学時代に、
「思春期というものがある」
というのを知ったのは、自分が思春期に突入してからだった。
言葉では聞いたことがあったが、これがまさか、思春期だと思わなかったという思いだったのだ。
それは、
「初めて自分の顔を鏡で見た」
という時に感じた。
「これが私なの?」
という思いに似ていた。
もちろん、それまで鏡を見たことがなかったなどということはなかった。
子供の頃に、何度も見たはずなのに、その頃は別に何とも思わなかった。思春期になると、その思わなかったということが不思議で仕方がないという思いになっていたのだった。
そこに、
「思春期というものの存在がある」
と感じたのだった。
これは、思春期というものを感じるという他の人との感覚とは若干違うものだった。そのことは自分でも分かっていたが、どこか、理屈に合わないところがあったが、それらすべてをひっくるめて、
「思春期というのは、こういうものなのだ」
と思い込むようになったといってもいいだろう。
中学時代に、
「もう一人の自分」
を感じるきっかけとなったのも、
「すべてが、思春期なるがゆえ」
と考えるようになったからであり、
「目の前に見えている自分の顔が、もう一人の自分なんだ」
と思えば思うほど、
「もう一人の自分は、本当の自分ではない」
と感じるようになった。
その頃、友達から聞かされた。
「ドッペルゲンガーの話とが交錯し、余計に、
「本当の自分ではない」
と思うようになったのだった。
「ドッペルゲンガーの話」
をしたその友達も、どうやら又聞きだったようで、ハッキリと意識しているわけではないのに、強引に説明しようとしてくるので、その説得力には欠けていた。
なぜかというと、すべてが、
「まるで、マスゴミがよくやる、切り取りのようなもの」
だったのだ。
切り取りというと、それぞれに、主要なところだけを覚えているだけで、その記憶をつなぎ合わせるように説得の材料に使うのだから、そもそも、辻褄が合っているわけではないということであった。
そんな説得力のなさというものを考えてみると、
「ドッペルゲンガー」
というものを、いかに理解しようとしても、できるわけはない
そんなことを考えるようになったのだが、その理由としては、
「次第に、もう一人の自分というのを見ることができるのは、夢の中でしかない」
ということに気づくようになったからだということであった。
というのは、
「もう一人の自分」
というものが、
「鏡のような媒体がなければ見ることができない」
という当たり前のことに気づいた時。その媒体というのが、
「夢ではないか?」
と感じるようになるまでに、そんなに時間が掛かるわけではなかったのだ。
夢というものを見ていると、
「実に都合よくできているくせに、あくまでも、万能というわけではなく、限界というものがあることに変わりはない」
と考えるようになった。
外人と戒厳令
夢を見ていると、
「前にも見たことがあったような」
という、まるで、
「デジャブ現象」
といっていいものを見ると考えると、その思いが、自分にとっての、
「都合のよさだ」
と考えるようになったのだった。
都合のよさというのは、夢の中の自分に対してのことなのか、それとも、起きている時の自分に対してなのか?
ということを考えていると、
「夢の中の主人公である自分が、実はもう一人の自分で、本当の自分というのは、その夢を見ている自分なのだ」
ということで、
「主人公と、観客」
ということを考えると、
「じゃあ、もう一人自分がいるのではないか?」
と考えたのが、
「監督兼脚本」
作品名:夢による「すべての答え」 作家名:森本晃次