夢による「すべての答え」
「もう一人の自分が、表に出てくることはない」
という、自分の勝手な都合で、話を作り、それをまるで、ドッペルゲンガーの話になぞらえたのだと考えると、他の人も同じように、自分の責任を、ドッペルゲンガーという架空の存在にかぶせることで、証拠隠滅のために、死ぬことになるのではないか?」
という考えがあるのだとすれば、実に面白い考えだといえるのではないだろうか?
かすみは、最近、
「よく夢を見る」
と感じるようになっていた。
見る夢というのは、どういう夢なのかというと、怖い夢が多かったりする。
その怖い夢というのが、
「もう一人の自分を見る」
という夢であった。
最初の頃は、最初から最後まで、
「見るからに、もう一人の自分」
であったが、最近見る夢は、
「最初こそ自分ではない、少し不気味な人が登場し、次第にその人が、もう一人の自分、つまり、自分にどんどん似てくる」
という夢であった。
しかも、それが、なぜか、
「満月の夜」
だったのだ、
満月の夜:
というと、完全に、
「オオカミ男の話」
とかぶっているわけである。
オオカミ男」
というと、普通の男性が、満月を見ると、急に苦しみだして、顔を抑えているのだ。
一緒にいた自分が気になって。
「大丈夫ですか?」
と声をかけると、そこには、オオカミに変身した男がいる。
というようなストーリーの場合もあれば、
「顔を抑えようとしても、抑えきれずに、オオカミに変身するシーンがリアルに見られる」
というシチュエーションの時もある。
ただ、その恐ろしい状態が、最初から分かっていたと思うのだ。
ただ、顔を抑えているか、あるいは、リアルな変身シーンが見れるのか?
という違いだけであった。
ただ、それぞれのパターンに、規則があるような気がする。
「いきなり顔を抑えて、変身シーンを見せなかったパターンの時は、以前にも見たことがある」
というような気がすると感じるのだが、後者の、
「リアルに変身シーンというのは、初めて見る」
という感覚になるのだった。
ただ、オオカミ男のシーンを、以前に夢で見たことがあるという感覚は、最初からあったのだ。
それを感じたということを、後者では、途中で忘れてしまうのか、本当に覚えていないと言っても、無理もないのだった。
そんな時は、目が覚めるにしたがって、記憶から消えていく感じになるのだが、なぜか、完全に目が覚めた時は、忘れてしまったはずなのに、覚えているのだった。
というのは、
「忘れてしまった」
という感覚が、
「錯覚ではないだろうか?」
と感じさせるのだった。
というのは、
「夢を見たということが、自分の中で、交錯している」
かのように感じ、それこそ、
「夢を見ているという夢を見た」
という、まるで、
「マトリョシカ人形」
のような感じである。
以前、誰かがギャグのつもりか笑い話のつもりで、
「不眠症の夢を見たというのだが、それは、眠れないという夢を見ていた」
というオチだったという話だったのだ。
笑い話であるが、ただの笑い話にできないのは、
「同じ夢を二度と見ることができない」
ということだからであった。
「もう一人の自分」
という夢であるが、
「まったく同じ自分の夢」
というパターンの夢が一つ。
この時は、自分が見たその夢は、
「なぜ、最初から、その人が、もう一人の自分なのかということが分かったのか?」
ということであった。
自分そっくりな人間がいたとして、普段から自分の姿を確認することは、そんなになかった。しかも、その頃、つまりは、
「もう一人の自分:
という意識の夢を、一番最初に見たのは、まだ、幼児の頃だったように思う。
夢というものは、
「昔見た気がするんだけどな」
という程度の記憶であれば、それがいつのことだったのか、ほとんど覚えていあに場合が多い。
実際に、数年前だった場合もあれば、昨日の夢だった場合もある。それも分かる時と分からない時があるのに、その時は、
「最初に見たのが、幼児の時だった」
ということを覚えていた。
しかも、その幼児の頃というのは、本当に小さかった頃に見たというだけの記憶ではなく、
「その頃によく見た」
という思いがあったのだ。
毎日ではなかっただろうが、
「よく見た覚えがある」
という思いだけで、十分だったのだ。
そして、そんな夢をいつの間にか見なくなると、見ていたという意識が薄れていったのだろう。
しかし、忘れていた記憶が思い出されることが起こった。
それは、数年後に、また見た時のことであり、最初は、
「前にも見た記憶がある」
という程度のものであったが、そのうちに、
「数年前、そう、まだ小さかった頃に見ていた夢だわ」
ということを思い出した。
どうして思い出せたのかというと、
「私が、鏡を気にするようになったのは、中学生になってからくらいだったわ」
と思ったからだ。
かすみは、中学時代まで、身だしなみというものには、無頓着だった。
「本当は、男として生まれるはずじゃなかったのかしら?」
と感じていたほどで、その根拠は、親にあった。
両親は、
「男の子がほしい」
と思っていたようで、
何といっても、
「家の跡取り」
というものを、特に母親は感じていたようだった。
父親は普通の家庭に育ったのだが、母親は、昔からの、
「華族」
というところの家柄だったようだ。
華族というのは、戦後に没落することになるので、母親の親の世代は、
「かなり惨めな思い」
というのをしたようだった。
だから、祖父、祖母の世代は、ほとんど、あきらめの境地だったようで、母親も、あきらめの境地を感じさせるような教育を受けていたという。
しかし、母親は、性格的に、
「天邪鬼」
なところがあり、
「親が、華族へのあきらめの境地があるのだったら、せめて気持ちくらいは、華族様という感じでいよう」
と思っていたのだった。
だから、母親は、かすみを、
「プライドが高い」
という子供に育てた。
実際には、表にその思いを出すことはなかったが、中学時代から、思春期になって、女の子を意識するようになると、そんな中で、
「女の子として、負けたくない」
という気持ちが少しずつ芽生えてきたということで、鏡を見たりするようになったのだが、それまでは、男の子と同じような感覚が強かったので、鏡を見るなど、ほとんどなかった。
だから、鏡を見なかった頃は、
「自分というものを意識することもなく、自分がどんな顔をしているのか?」
ということは意識もしなかった。
だから、
「もう一人の自分」
という意識もなかったといってもいい。
そんな自分が、
「もう一人の自分」
というのを意識していたのだから、
「何かおかしい」
という、不可思議な感覚になってきたのが分かったというものである。
そんなことを考えていると、
「子供の頃に見たんだ」
ということが、帰納法的、いや、減算法という感覚で分かったような気がしたのだ。
「見たこともないはずなのに、どうして、それが、もう一人の自分だと感じたのか?」
作品名:夢による「すべての答え」 作家名:森本晃次