夢による「すべての答え」
「躁鬱症というものが、二重人格と考えるよりも、ジキルとハイドの考え方の方が近い」
といえるのではないだろうか?
ということを考えると、
「躁鬱症と、二重人格性というのは、必ずしも、近しいものだとは言えない」
ということであり、そもそも、
「ジキルとハイド」
という小説を書いた人は、
「躁鬱からの発想が近かったのか、それとも、二重人格性」
ということが近かったのか、その発想が難しいところである。
「ジキルとハイド」
という話の場合は、
「物語の面白さ」
という観点からも、
「ジキルとハイドは、まったく正反対の性格」
という設定になっている。
しかも、
「片方が表に出ている時は、片方は隠れているという感じで、その様相も、まったく違う人になっている」
という感じであろう。
まるで、人格が変わることで、別の生き物になってしまうというのは、
「オオカミ男」
の話のようではないか?
「月を見ると、オオカミ人間に変身する」
という、
「オオカミ男」
の話である。
これが
「実際に同じ人間なのか?」
それとも、
「妖怪変化が乗り移ったものなのか?」
という発想を思い浮かべてしまうが、
「オオカミ男」
に変身することで、まったく違った人格が生まれたというのであれば、
「ジキルとハイド」
の話とは、違うものだといえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「ジキルとハイド」
「オオカミ男」
と、それぞれに違った発想から生まれたような気がしない。それぞれに、意識しあった構成になっているような気がするのだが、それは気のせいであろうか?
実際に、お伽化かしや神話など、まったく遠くに離れていて、関連性のなさそうなところで似たような話が掛かれるというのは、それだけ、
「人間の発想というものが、似通っている」
といってもいいのではないだろうか?
ドッペルゲンガー
前述の話の中で、夢に出てきたことがある話は、
「ジキルとハイド」
という話のようなものだった。
話をすべてを分かっているわけではないが、夢を見た発想となったものに、
「もう一人の自分」
という発想であった。
この発想は、いわゆる、
「ドッペルゲンガー」
と呼ばれるもので、
「もう一人の自分というのが、この世に存在していて、その人物を見ると、近い将来に死んでしまう」
という言い伝えのある話である。
これは、かつての有名人、著名人が見たということで、実際に死んでしまったという事実があることから、迷信だと思いながらも信じている人が多いのも事実である。
「この世には、自分とよく似た人が三人はいる」
と言われるが、ドッペルゲンガーの場合は、似ている人物ではなく、本当の自分だということである。
確かに、よく似た人は実際にいるだろうが、同じ時刻の同じ範囲内に、
「自分が存在している」
というのは、タイムパラドックスというものに違反しているということであり、死んでしまうというのは、
「タイムパラドックス」
というものに、違反したからだという考えであったり、
そもそも、ドッペルゲンガーなどというものは存在せず、その人が精神疾患であったりすることから、
「見えないものが見える」
ということで、
「病気なのだから仕方がない」
ということで、死んだのは、
「病気によるものだ」
という考え方である、
この考え方が、実は一番しっくりくるのではないだろうか。
というのも、
「死ぬということを、潜在意識の中で考えていると、見えないものが見えてくる」
と考え、
「見えないものが見えてしまうと、死ななければいけない」
という迷信めいたものがあれば、死にたくなくとも、死に近づいてしまうという発想も成り立つのだ。
本人は、死にたくないという意識を持っているのかも知れないが、
「死んでしまうということがどういうことなのか?」
と考えると、
「覗いてみたい」
という意識が、潜在意識の中に芽生えるのかも知れない。
それは、
「夢の中であれば、空を飛ぶこともできるのではないか?」
と思ったとしても、
「夢だといっても、空を飛ぶことはできない」
という発想から、
「矛盾した思いが頭の中を錯乱することで、夢というものと、現実との間が、同じような発想になり、次第に、夢と現実の結界がマヒしてくるということになり、それが、もう一人の自分というドッペルゲンガーを見せるのではないか?」
ということも考えられなくもない。
つまりは、ドッペルゲンガーの基本は、
「もう一人の自分」
なのだ。
それが、
「ジキルとハイドなのか?」
それとも、
「オオカミ男のように、まったく違うものに変身するのか?」
それとも、
「フランケンシュタインのように、新たに創造する」
ということなのか? 夢はそのどれかを見せるのであった。
「毎回夢は違っている」
それが、
「ドッペルゲンガーの夢」
だったのだ。
「ドッペルゲンガーというのは、もう一人の自分だ」
というではないか?
だとすれば、
「似ている、似ていない」
というのは関係がなく、
「もう一人の自分」
ということであれば、
「ジキルとハイド」
というのも、
「ドッペルゲンガーではないか?」
といえるのではないか?
確かに、ジキルとハイドというのは、どちらも自分であるが、二重人格の双極ということであれば、
「ジキル博士と、ハイド氏の両方を一緒に見れば、死ぬことになる」
と言えるだろう、
しかし、その両方を同時に見ることはできない。
まるで、自分というものが、
「自分を見ようとすると、鏡のような、何かの媒体を使わなければ見ることができない」
ということになるのだ。
だから、まったく似ていないというのも、ある意味、
「それが、もう一人の自分だ」
というのを、証明しないということが、自分の命を危うくしない方法なのかも知れない。
「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」
というのは、
「もう一人の自分を見ると死ぬ」
ということと、同意語なのだろうか?
「ジキルとハイド」
という話を見ていると、
「自分で作ってしまったハイド氏というものを、自分の責任ということで、何とかして葬る」
という風に見えるが、
「実は、ジキル博士は、自分の中にハイド氏がいるということに気づき、いずれ表に出てきて、結局自分を苦しめることになるので、誰にも知られないうちにmひそかに葬り去るということにして、自殺をもくろんでいた」
という考えも浮かんでくる。
あるいは、
「ハイド氏の時に、すべてのワルさが行われたということにして、ジキル博士の名誉を傷つけないように、すべてをハイド氏にかぶってもらうということで、わざと作り出した、もう一人の自分」
というのが、このお話の根幹ではないか?
とも考えられるのであった。
本当は、主人公であるジキル博士は、自分がハイド氏を作り出してしまったことで、
「作ったことが悪い」
ということになっているが、本当は、
「本性は、ハイド氏ではないか?」
という考えが頭をもたげるのだが、何しろ、
作品名:夢による「すべての答え」 作家名:森本晃次