夢による「すべての答え」
「マナーというものを境にして結界がある」
ということは、往々にしてあるだろう。
まわりから見ると、
「一つの大きな輪」
でしかないのだが、中に入ると、それぞれの立場で、わだかまりがあったりする。
だから、その片方が、何か輪の外の人に迷惑をかけるということになると、
「輪の中全体が、偏見の目で見られる」
ということを、
「マナーを守っている人には、その理屈は分かっていて、マナを守らずに、自分の立場しか主張しないようなやつは、味方すら、敵に回すということを、まったく分かっていないということになるのだろう」
そんなことを考えていると、思い出す言葉に、
「長所と短所は紙一重」
ということである。
それともう一つ思い出すものとして、
「ジキルとハイド」
という、二重人格性のある、物語であった。
「ジキルとハイド」
という話は、ある意味分かりやすいといってもいいだろう。
二重人格の人間」
というのは、結構いるもので、ただ、この、
「ジキルとハイド」
というような二重人格性は、実にまれなことであろう。
「普通の人の二重人格性」
というと、その性格がまったく正反対であったとしても、意外とその感覚があるというものである、
「普段はおとなしいんだけど、急にスイッチが入って、人間が変わることがある」
というのが、
「普通の二重人格性」
というものではないだろうか?
よく言われるのが、
「ハンドルを握ると人間が変わる」
という人である。
普段は冷静沈着で、あまり怒りをあらわにすることはないのだが、車に乗ると、イライラしてきて、道路交通法に違反しない程度であれば、
「何をやっても、かまわない」
というくらいに考えている人もいるだろう。
そんな二重人格性をいかに考えるかということであるが、
「ジキルとハイド」
の場合は、お互いに、それぞれの人格を有したものであり、
「それぞれが単独で人格として存在できる」
といえるだろう。
だから、
「片方が表に出ている時は、片方は眠っている。そして、片方が出てくると、それまで表にいた人格は、裏に入ってしまう」
ということだ、
この優位性は、必ず存在するというもので、ただし、普段から表に出ている人格が、本当のその人の人格なのかというと、
「ハッキリと、そうだとはいえない」
ということである。
「ジキルとハイド」
という物語の場合は、
「ジキル博士は、自分の中にもう一人がいることは分かっていたが、どんな人間なのかということは分かっていなかったのではないか?」
ただし、ジキル博士の考え方としては、
「今表に出ていて考えている自分にないものを持っている人格」
ということで、それを、
「いい性格ではないか?」
と考えたのかも知れない。
いや、自分にないことで、それ以上上を目指したいと思っているはずなのに、上にいけないことでのいらだちから、
「もう一人の人格を、薬で表に出そう」
と考えたのだろう。
この発想は、
「フランケンシュタイン」
と似ているのかも知れない。
「自分にはないものを作ろうとして、怪物を作ってしまった」
というのが、フランケンシュタインの話。
「自分の中にあり、潜在している性格を表に出すことで、自分のもう一つの性格を覚醒させて、自分の超えられないハードルを越える」
という形を考えた、
「ジキルとハイド」
の話。
「ジキルとハイド」
という話は、明らかに二重人格性の話であるが、
「フランケンシュタイン」
という話は、一見、二重人格ではないと思える。
しかし、
「自分が作ったロボットや理想の人間の、理想の部分というのは、あくまでも、自分という中にある性格であり、結界があったとしても、その先にあるものは、結局。自分でしかない」
ということになるであろう。
フランケンシュタインという話には、
「フランケンシュタイン症候群」
というものがあり、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
ということでの戒めがあるのだが
「ジキルとハイド」
という話には、それに携わるような、症候群というのがあるのだろうか?
少なくとも、聞いたことがないような気がする、
この二つの話において、明らかな違いというのは、
「フランケンシュタインの話は、新たな人格の生成ということであり、ジキルとハイドの話は、自分の性格の裏側ということで、潜在しているものを、表に引き出す」
ということであった。
フランケンシュタイン症候群という考え方が存在し、ジキルとハイドのような話が、現実味を帯びるような症候群がないということは、
「ジキルとハイド」
のような話はあくまでも、
「架空のお話で、実際にはありえない」
といえるのではないだろうか?
ということであった。
これは、逆にいえば、
「フランケンシュタインのように、ロボット開発であったり、サイボーグという発想は、これから実際に、人間によって開発されていくことだ」
ということで、逆に、
「ジキルとハイド」
というような話は、
「人間の表には出してはいけないということを引っ張り出す」
ということで、教訓ではあるが、実際にはありえない。
ということを証明しているのではないか?
と考えられるのであった。
逆に言えば、
「二重人格性というものの中で、まったく正反対の人格がその人の中にいて、それを引っ張り出すということは、不可能ではないか?」
ということである。
「もしできるのであれば、今までの人類の歴史の中で、何度も起こっていても不思議のないことだ」
といえるだろう。
しかし、これも、
「実際には起こっていることであるが、怪奇現象ということで、すべてを、オカルトのような伝説として片付けることで、ありえないことだ」
と思い込ませているだけではないだろうか?
そう思うと、
「ジキルとハイド」
という話は、ある意味、
「人間界のタブーのようなもの」
ということであり、
「それを考えるということ自体、悪だといえるのではないか?」
だから、
「ジキルとハイド」
の物語には、
「症候群というものはなく、最初から、あり得ないものだ」
ということで、結論付けているのではないだろうか?
それを考えると、
「フランケンシュタイン」
という話と、
「ジキルとハイド」
という話は、似通っているところはあるが、実質的に、
「まったく違うお話だ」
といえるのではないだろうか?
どちらも、
「人類への戒め」
であるが、あり得ることと、あり得ないことの、それぞれの代表例だといってもいいのではないだろうか?
「二重人格性というものをいかに考えるか?」
ということであるが、
一番考えやすいものとして、
「躁鬱症」
という病気が考えられる。
その中には、
「双極性障害」
と呼ばれるものもあり、明らかな病気として認定され、
「投薬が必要」
ということになり、これが、いわゆる、
「うつ病」
との違いが問題になってきたりしている。
特に、
「躁状態とうつ状態を繰り返す」
と言われるもので、
作品名:夢による「すべての答え」 作家名:森本晃次