夢による「すべての答え」
「自分が知らない痛みを感じることはできない」
という当たり前のことに気づくのだった。
どれだけの痛みというものが、自分に襲ってくるのか?
それをまったくわかっていないことが、人の痛みというものをができないということを思い知ることで、それが、
「自分が我慢しなければいけないという理由なんだ」
と思うのだった。
我慢強さというものが、男女で違うというのは、あくまでも、おおざっぱなことであり、基本的に、
「一人一人、違って当たり前なんだ」
という当たり前のことに気づくのだった。
だが、どうしても、基本的に、男女の違いということで片付けられる。それは、やはり、
「出産は女性にしかできない」
ということからだろう。
しかも、男女で、性欲に対しての身体の反応はまったく違っている。
女性の場合は、
「何度でも、絶頂を迎えることができる」
と言われるが、男性の場合は、
「一度絶頂に達すれば、そこで一度冷静になり、我に返ったかのようになる」
というものである。
それを、
「賢者モード」
という言葉で表されるのだが、これが、男女の間で分かっていないと、大きな勘違いになるというものだ。
昔のサスペンスドラマなどで、
「男が女を」
あるいは、
「女が男から」
何かの情報を得ようとして、
「色仕掛け」
というものを使ったりした場合、女は、絶頂を迎えると、男性に抱き着きたくあるのらしいが、男性の場合は、身体が敏感になりすぎて、汗を掻いたりした身体に、女性が身体を押し付けてきたりすると、感じすぎてしまうからか、だるさに繋がってしまうというのだ。
だから、男性は、女性に抱き着かれても、抱き返すようなことをせずに、女性の態度や感情にお構いなく、まずは、最初からベッドわきに置いているタバコに火をつける。
などというシーンが多くみられることだろう。
今は、昔に比べて、
「喫煙場所」
というものが、圧倒的に減ってしまい、
「児童喫煙防止法」
というものが設立されてから、基本的に、
「室内で吸えるのは、自分の家くらいだ」
と言われる時代になったのだ。
中には、
「喫煙ルーム」
というものがあるところもあるのだが、逆に、そうでなければ、
「絶対に吸ってはいけない」
ということになるのだった。
だから、昔のドラマのように、
「ラブホテルのベッドわきでタバコを吸うということは、ほとんどできないので、そんなシーンのドラマを見ると、時代錯誤を感じさせられる」
ということになるだろう。
何しろ、1980年代後半くらいから、
「嫌煙権」
というものが認められるようになり、どんどん、タバコが吸える場所が減ってきた。
以前は、
「禁煙ルーム」
であったり、
「禁煙車両」
などといっていたが、そのうちに、
「喫煙車両」
という形になり、今では、
「電車の客席では、全席禁煙」
ということになったのだ。
だから、今の人が、
「電車の座席の横に、昔は灰皿があった」
などというと、
「えー」
といって、驚くくらいである。
昔は、教員室で、先生がタバコを吸っていたのだ、それなのに、生徒が隠れてタバコを吸っていると、生徒は処分を受けるのだ。
昔だったら、
「そんなことは当たり前じゃないか?」
と思われたであろうが、もし、それを今の人が聞くと、
「いやいや、先生も吸っているんだから、生徒に言える資格はないよな」
ということになるだろう。
それはあくまでも、
「時代の流れのために、見たこともない光景に、想像することで、その想像が、理屈によってもたらされることなので、
「理屈の上だけで考えると、おかしな理屈になる」
ということなのだろう。
しかし、その理屈はあくまでも、
「大人の理屈であり、その大人は、途中のどんどん変わってきた様子を見ていて、知っているのである」
それを考えると、
「タバコの喫煙」
というものを、
「大人の理屈から見るか?」
あるいは、
「子供の理屈から見るか?」
ということで、まったく違ってくるのであった。
「そこには、すべての人を納得させようとする配慮による、時系列があり、そのために、
猶予期間というものが存在しているのも、無理もないことだ」
といえるのではないだろうか?
タバコというものを、今の時代は、
「罪悪」
という発想が、結構な人にあるだろう。
特に、
「マナーの悪さ」
というのが目立つからだ、
確かに、喫煙者からすれば、
「タバコを吸うのも、後ろめたい世の中になった」
ということであろうが、それは、嫌煙権というものが、言われ始めた頃であれば、
「それも仕方のないことだ」
といえるだろう。
しかし、時間が経つにつれて、
「どんどん、タバコを吸える場所がなくなっていった」
ということで、
「最初から、タバコを吸わなければいいのに」
と、
「タバコを吸わない人」
あるいは、
「タバコをやめた」
という人からみれば、
「それ以外にないだろう」
と思うことだろう。
タバコをやめた人の話では、
「やめることができてよかった」
といっている人がたくさんいる。
「実際に、今のようにタバコを吸う人が罪悪だという風にみられる」
というようになってからでも、吸い続けている人は、ある意味、
「ブレない」
という意味で、精神力の強さがみられるが、そういう人は、きちんとマナーを守るだろう。
つまり
「キチンと決まった喫煙所以外では吸わない」
というような、最低限のモラルを守っているだろう、
しかし、
「ただ、やめられない」
というブレないというわけではなく、ただ、
「意志が弱い」
という連中は、やめられないことを、社会のせいであったり、他人のせいということにして、
「タバコを吸って何が悪い」
とばかりに、公園で吸ったり、路上喫煙をするなどの暴挙に及んでいるのだ、
「違反をしているのだから、取り締まればいいのに」
と思っている人は、正直、
「違反して吸っている人以外の、すべての人間であろう」
つまりは、
「違反喫煙者が、1割いたとすれば、9割は、そんな連中を見て、不快に思っている」
ということである。
もっといえば、
「苦労してやめた人が一番怒っているのかも知れない」
ともいえるが、それよりも、
「マナーを守って、喫煙している人も我慢のできないことであろう」
というのは、
「あんな、マナーを守らない連中がいるせいで、喫煙者全員が、マナーを守っていないと思われるのだ」
ということで、一番迷惑をこうむっているのは、
「同じ喫煙者だ」
ということである、
それを考えると、
「マナーを守っていない連中は、まさかと思うが、喫煙者全員が、自分の味方だなどと本気で思っているのだろうか?」
ということである。
本来であれば味方になるべき相手を敵に回して。しかも、
「迷惑だ」
と思われていることに、気づきもしない。
「これほど、愚かで、情けないということはないのではないか?」
といえるだろう。
このように、同じ枠に嵌っているとしても、そこには、一通りの人がいるわけではなく、タバコのように、
作品名:夢による「すべての答え」 作家名:森本晃次