パラレル国家の真実
だが、感情というものをうまく表現できるのが、起きている時で、それだけ、辻褄が合っていると思えるのも、起きている時であった。
夢を見るということは、
「現実があっての夢」
だと思っている。
しかし、本当の自分が夢だと考えると、
「夢の自分が、現実に影響を与えているのだとすると、普段の毎日も、同じことを繰り返しているのではないか?」
と思うのだ。
ただ、そんなことはない。
となると、
「夢を毎日繰り返している」
というわけではなく、
「毎日見ているわけではなく、以前に見た夢を、毎日見ているという感覚で、それこそ、残像が残っている」
という思いに繋がっているだけではないだろうか。
だから、現実では、
「なるべく、毎日を、一種の、ルーティンを繰り返すように感じよう」
としているのではないかと感じるのだ。
だから、なるべく、毎日を
「同じルーティンで始めよう」
と感じるのだ。
だが、それを感じるようになったのには、理由があった。
それが、
「物忘れをしないようにしたい」
という思いからだった。
物忘れの激しさは、小学生の頃からあった。
宿題を忘れることが増えてきたことで、その自覚がさらにひどくなったのだ。
宿題が出たことを忘れているのだ。宿題をしないことに、先生も、親も怒った。
それはそうだろう。学校の先生も、親も、
「子供の教育として責任があるから」
と思うと、今度は、
「私をそれだけでしか見ていないのかしら?」
と感じるようになると、
「宿題だけの問題なのだろうか?」
と感じるようになると、
「自分のことを大切に思ってくれているのだろうか?」
と感じる自分がいたのだ。
親にしろ、先生にしろ、
「大人になるということは、責任を持つことになる」
ということを、その時に、かすみは感じることになったのだろう。
宿題をしないというのは、
「宿題が嫌いだからなのか?」
そんなことも自分で分からない。
宿題を忘れるからといって、宿題をしたくないとか、勉強が嫌いだとか言うわけでもない。確かに、もっと前は、勉強が嫌いだった。理屈が分からなかったからだ。
最初は、
「1+1=2」
という理屈が分からないということで、まったく先に進める気がしなかった。
結局、その理屈が分かるわけではなかったが、
「理解しようと思わずに、数字の繋がりというものを、最初の公式とは別に考えてみると、結構面白いことに気が付いた」
本来の宿題などよりも、こっちの方が大いに興味を持ち、学校でも、授業を聞いているつもりではあるのだが、ダントツで、
「算数の数字の羅列による公式」
というものを考えるのが、好きになったのだ。
「数字の羅列」
というものが、いかに楽しいものなのかと考えると、
「いつの間にか、絶えず、数字の羅列を気にしている自分に気が付いた」
ということであった。
だから、宿題が出ていたことを忘れるということに対して、
「無理もないことだ」
と感じるのも、分からなくもない。
しかも、その間に、
「眠ってしまって夢を見る」
という間があるわけだ。
そうなると、
「夢を見ることで、日にちが変わって、明日がくる」
と思うようになった。
だから、残像の夢が残っているだけなのに、
「毎日同じ夢を繰り返し見ている」
と感じるようになるのだろう。
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
ということと、
「夢というのが、どんなに長い夢といっても、目が覚める寸前の、数秒という瞬間に見るものだ」
ということを、いつも頭にあると思っていたのだが、実際に、目が覚める時には、その発想を忘れてしまうようだった。
その時に一緒に、
「夢を見る前の現実での出来事を、いくつか忘れてしまっているのだ」
と思うようになると、
「夢を見るというのが、今度は怖くなってくる」
ということであった。
「夢は、確かに現実と正反対のもの」
ということで、それがまるで、
「長所と短所」
あるいは、
「昼と夜」
という正反対のものだと思うのだが、
「長所と短所」
のように、それぞれを考えれば反対が見えてこないということのないものとは、少し違っているように思えた。
「長所と短所」
は、正反対に見えるが、
「昼と夜」
というように、どちらかが表に出ている時、
「もう一方は、意識することができないということなのか?」
というように考えてしまう自分がいた。
「その二つの間に、夢というものがあり、人間には、必ず、相対するものがある」
という理屈の中に成り立っているものだということになるのではないだろうか?
それが、
「夢と現実の狭間」
というものになるのだろう。
夢というのを見ていると、
「それは、自分にとって都合のいいことばかりが見えているのか?」
それとも、
「都合がいいことばかりが見えているようで、いくら夢だからといって、できないと思っていることはできない」
ということを自分に思い知らせるために、存在しているものなのではないか?
と考えることもあるのだった。
夢というものを見ている時、
「これは夢なんだ」
と思える時がある。
そんな時、
「夢なら空を飛べるだろう」
と、宙に浮いてみるという行動をとってみたことがあった。
実際に宙に浮くことはできるのだが、それも、人の膝くらいまでである、手を突こうと思えばつけるくらいのところ以上は、高く飛ぶことはできない。それは、自分が意識の中で、
「これが夢の中だからなんだ」
と感じるからであった。
夢というのが、見えていることに対して、素直に感じることができるから、
「これは夢だ」
と感じさせてくれるのだろう。
本来であれば、起きている時に、
「夢を感じてはいけない」
という結界のようなものがあるのだとすれば、
「夢と現実の間には、超えてはならない結界が、存在しているのではないか?」
といえるということになるのだろう。
「夢と現実」
という関係が、
「昼と夜」
という関係と、
「長所と短所」
という関係のどちらに近いというのだろう?
と、考えさせられと考えると、
「それぞれに結界があり、見ることができない」
という形式的な発想だと思うと、
「昼と夜」
との関係ではないかと思うのだった。
「だったら、それぞれ、対になるものが存在している」
と考えるということになると、
「長所と短所」
というものと同じようなものも存在していると考えられると思うのだった。
「だが、それが何か、今のところ分からない」
と感じた。
実際に、年を重ねてきても分からない。
「物忘れが激しくなった」
と思って、ルーティンにしたことで、
「宿題を忘れる」
ということも自然となくなっていったが、そこに、自分の意識が関係しているわけではなかった。
宿題というのは、
「嫌だから忘れる」
というわけではないと感じていたのだ。
確かに宿題というものは、小学生の頃は嫌だった。
それも、嫌だったという理由が、
「なぜ、しなければいけないのか?」
ということであるが、その言葉にはも、やはり裏表があったのだ。