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パラレル国家の真実

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「しなければいけない」
 というのは、
「義務を感じるからだ」
 と思うからではない。
 問題はそこではなく。
「しなければいけないことに、どんな意義があるのか?」
 ということであった。
 この意識というのは、それこそ、
「1+1=2」
 という理屈をいかに、自分で考えるか? ということが問題になってくるからだということになるのだ。
 この数式でもそうだ。
「義務と感じる」
 というのは、最後結局、どこかで割り切ると言えばいいのか、
「そういう風になっているんだ」
 と、それ以上を考えないということが、自分にとっての理屈になるということで、誰もが、
「そんなことは当たり前じゃんか」
 といって、それ以上を考えている人を蔑むように見えるのだ。
 それこそまるで、
「そういうものだ」
 と理解してしまえば、楽になれるという理屈から考えることではないのかということになるのだろう。
 一生懸命に考えても、結論が出ないことなのかも知れない。
 正直、この公式というのは、
「算数、数学におけるすべての公式の原点になる」
 ということで、
「この公式を理解でいれば、他の公式など、いくらでも思いつけるというものだ」
 ということではないだろうか。
「そもそも、理解するということがどういうことなのか?」
 ということが、分かっているのかどうなのか。それが問題なのではないかと思うのだった。
 他の公式であれば、理解できるかも知れない。
 何しろ、
「この公式を理解できるために、今まで勉強してきた」
 という自負があるからだろう。
 しかし、どこかで必ず引っかかる時がある。
 その理由は、
「原点である公式」
 を自分で理解できていないからだ。
 といえるのではないだろうか。
 逆にいえば、
「そのことが理解できるのであれば、もし、数学に限界があるのだとすれば、誰もが、数学者になれる」
 ということになるのではないか?
 と思うのだった。
 すべての原点が分かっていないから、人それぞれの裁量があることから、行きつく先がバラバラだといえるのではないだろうか。
 もし、数学にも、囲碁や将棋のような、
「段や級」
 のようなものがあれば、それを分かってくれるのではないか?
 と思うのだった
 ということは、どういうことなのかというと、
 たとえば、将棋などで言われていることとして、
「将棋で一番隙のない布陣というのは、どういうものなのか?」
 という質問を受けたとしよう。
 その時、段取りの人であったり、名人のような人であれば。即答することだろう。
 それだけ、自分がそのことを体感できるといえるほど、考えているということになるからだといえるからではないだろうか。
 というのは、
「言葉で聞いたとしても、イメージはできるかも知れないが、正直。実際にやってみて、自分が、少しずつでも、将棋というものを分かってきている」
 ということを感じるようにならなければ、そこから先に進むという前向きな考えが生まれてくるはずがないということになるであろう。
 つまりは、
「すべてには、必ず、最初というものがあり、その最初を理解できずに先に進むと、必ず限界があろうがなかろうが、どこか、限界とは程遠いところで、生きどまってしまう」
 ということである。
 しかも、そのすべてというものが、どこにあるのかということを考えようとすると、結局、
「限界の有無」
 ということによって、自分が左右されるのではないか?
 と考えてしまうのだ。
 だが、それは、
「一番最初に、乗り越えなければいけないところを、そうなっているのだから、仕方がないということで理解したような気分になってしまったということが、すべての間違いである」
 ということを分かっていないからではないかと思うのだった。
 そのためには、
「何度も反復して考える」
 ということも必要なのかも知れないし、
「物事には、何事も、裏表があり、ただ、その裏であろうが表であろうが、基本的には、立ち向かう自分が、ブレない気持ちをしっかりともっていなければならない」
 ということを分かっているかどうか?
 ということに掛かっているのではないだろうか?
 そんなことを考えると、小学生の頃、
「宿題を忘れる」
 というのは、自分の中にある意識の中での、
「何か一つの抵抗ではないか?」
 と思うのであった。
 そんな小学生の頃に見た夢の中で、よくあったのが、前述の、
「湖畔のそばにたたずんでいるサナトリウム」
 という光景であった。
 サナトリウムというのが、
「結核病棟だ」
 ということを知っているわけではなかったが、
「何か、昔の古い土地で、しかも、それは自分が生まれる、かなり前ではないか?」
 ということが分かり切っていると思わせたのだ。
「では、デジャブというのはおかしいよな」
 と考える。
 そうなると、じゃあ、
「デジャブというのは、自分が生きている間ということではなく、遺伝子であったり、ひょっとすると、前世という意識が働いているのではないか?」
 というような発想が生まれてくるかのように感じられるのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「思い出したというのは、自分がサナトリウムに入っていた」
 という記憶からなのか?
 それとも、
「自分があくまでも表から見たという時に感じた印象からきていることなのだ」
 といえることなのだろうか?
 という思いであった。
 その時の時代がいつだったのか、想像もできない。
「サナトリウムなのだから、戦前には違いないだろう」
 ということは分かっていた。
 今では、
「サナトリウムというのが、結核病棟である」
 ということが分かっていて、さらに、
「結核というのは、戦後すぐくらいに、特効薬ができてから、不治の病ではなくなったのだ」
 ということから、サナトリウムの存在意義がなくなってきている。
 ということが分かってきているからであった。
 それを思うと、
「サナトリウムが果たして、結核だけに使われていたのだろうか?」
 と感じるのであった。
 夢の中では、時代背景が分からない、見た夢が昨日のことだったのか、それとも、数日前だったのか、それとも、記憶が許す範囲内だったのかということすら、分からなくなっているような気がするからだ。
「記憶が許す期間」
 というのは、果たしていつまでのことなのだろう?
 自分の中では、
「宿題が出ていたことすら忘れていた」
 ということは、何かのきっかけのようなものがあれば、昨日のことですら忘れてしまう。
 覚える、忘れるという機能は、自分の都合によって決まるということであれば、
「それは、本当に昨日のことなのだろうか?」
 あるいは、
「今日のことでも分からない」
 ということなのか?
 ということになる。
 そういえば、
「経理的な数字合わせ」
 というのを考えた時、
「数字が合わなかった時、その数字の大小を比較した時、果たして数字の大小に、何を感じるか?」
 ということであるが、
「数字というのは、誤差が小さければ小さいほどいい」
 ということではない。
作品名:パラレル国家の真実 作家名:森本晃次