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パラレル国家の真実

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 ただ、これは、別に軍部だけが分かっていればいいことで、政府は軍のやり方を知ることもできない。何しろ、どこにスパイがいるか分からないからだともいえるからであった。
 大日本帝国というのは、
「軍と政府がバラバラ」
 といってもいいので、
「政府の不拡大政策」
 を打ち出しても、結局軍は先に進むしかないので、それを悟った政府は、事後承認という形で、追随するしかないのだった。
 ただ、天皇に上奏するのは、難しくはないだろう。
 何といっても、天皇は、軍にとっての、
「大元帥」
 ということなので、
「上奏しても、それは、最初から分かっていた」
 ということでの、ある意味、
「形式的なことだ」
 といえるのではないだろうか?
 不拡大政策を行っても、結局、越権とみなされるであろう、
「朝鮮軍における。越境」
 ということは、本来であれば、
「天皇の命令なしに、海外に派兵することは違憲だ」
 ということで問題になったが、その時の朝鮮軍司令であった人物は、
「その後、首相になった」
 ということであり、しかも、満州事変を立案実行した関東軍参謀課長は、その後、出世街道を歩むに至るのだった。
 ただ、この時の軍と政府の溝が決定的に深かったことも、日本が、
「世界的に孤立する」
 というのも、ある意味無理もないということになるであろう。
「日本とアジアの関係」
 というものは、諸外国に分からないように、日本国内における、
「軍と政府の間にある溝」
 というものは、
「交わることのない平行線」
 ということで、やむを得ないとすれば、代償やリスクを伴うものとして、大きな問題となることだろう。
 かすみは、毎日の生活をルーティンにしていた。
 最近では、すぐに物忘れの激しさを自分で思い知らされているような気がして、そのせいで、
「毎日、同じ行動をしていないと、忘れてしまう」
 と思うようになり、ルーティン化が自分の中で進んでいった。
 やってみると、これが思ったよりもしっくりとくるもので、やりながら、うまくいかなかったりするものを、いつの間にか、改善できていることに気づかされる。
 人と一緒にすると、今度は逆におかしくなるので、
「ルーティンというのは、自分の中だけで行うものだ」
 と考えるようになっていた。
 一時期、嵌りすぎて、
「玄関を出る時の一歩目を、どっちの足にするか?」
 ということにまで決めていたくらいだった。
 本当にルーティンになっていればいいのだが、それが、完全に、
「迷信に取りつかれた」
 というようになってしまうと、違う足から間違って踏み出した時、
「ああ、今日はろくなことがない」
 と後悔してしまうものだった。
 だが、実際にその人を過ごしてみると、別に何かがあったわけではない。
 それを思うと、結局おかしなことというのは、ないのだった。
「ああ、よかった」
 と感じるのだが、だからといって、迷信を辞める気にはならなかった。
「今日はたまたま、よかっただけなんだ」
 と考えてしまう。
 普段から、悪い方にしか考えようとしない人間は、えてして、普段からろくなことを考えていないのだ、だから。
「今日が、たまたまよかっただけで、いつもこうはいかない」
 と考えるのだ。
 だからこそ余計に、この時のことで、さらに、迷信を信じる体質になっていくのだった。
 迷信というものは、実に厄介なもので。そこに、ルーティンなどのような、
「厄除け」
 とでもいうようなものがあったりすると、
「悪いことを鎮めるどころか、厄除けをしている自分が、
「悪いことに対しては、できるだけのことはしておかないと、結局第五にバカを見るというのは、自分なんだ」
 と感じさせられるのであった。
 かすみが、そのルーティンを気にするようになったのは、かなり前からだった。
 というのは、あれは、小学三年生くらいの頃だったか。その頃にはすでに、踏み出す足を決めていた頃でもあった。
 最初は、そこまでの迷信めいたことをしていたわけではないが、毎日同じことをするということは、親からの教育で、そうさせられていた。
「いつも同じことをしていれば、とりあえず、悪いことが起こらない」
 と、特に母親は信じていた。
 父親もそうだというが、あまり家にいない父親のことまでは分からなかった。
 母親においては、父親と、違っているという思いが自然とあったのだ。
 というよりも、
「お母さんが、人に合わせるなんてことできるはずがないわ」
 と思ったのは、子供心にも、
「自分はお母さんと同じところがあるんだな」
 と思っていた。
 だから、ルーティンを決めておくということを、まず最初に言ったのであって。
「お父さんの方が、お母さんに合わせている」
 と言えばいいのか、
「夫婦がうまくいっているのだから、お父さんが合わせているとしか思えない」
 と感じていた。
 まだ、小学三年生だったが、学校での集団生活をしていると、
「本当に窮屈だ」
 と感じることがあった。
 一番よく感じるのが、
「給食の時間」
 だった。
 本来なら、
「一番楽しい時間」
 ではないだろうか。
 実際に、小学校を卒業すると、
「楽しかったのは給食の時間だったよな」
 という記憶が残っているのだ。
 しかし、その記憶を意識として思い出そうとすると、
「だけど、その時々を具体的に思い出そうとすると、嫌なことしか覚えていないんだろうな」
 というような感覚に陥る。
 それは、漠然とした感覚なので、思い出したことが、どういうことになるのか?
 と感じることで、その時々に、誰かがいつも絡んでいたのを思い出すのだった。
 絡んでくる人というのは、自分の中で、
「友達」
 と認識していた人だったはずなのだか、卒業してしまうと、
「本当に友達をいえるんだろうか?」
 と感じるのだ。
 友達というのが、自分にとってどういうものなのか、小学生でそこまで考える人はいないだろう。
 もし何か感じるものがあったとしても、
「いつも一緒にいて、お互い助け合っている相手」
 と、言葉では言えるのだが、
「助け合うって、どうするんだ?」
 と具体的なことになれば、小学生で分かるはずもない。
 中学に入って感じることとしては、
「助け合いというのは、相手に干渉しないこと」
 ということではないかと思うようになる。
「それだったら、友達の意味ないんじゃないか?」
 と思うのだが、中学くらいになると、
「干渉しないことで、お互いを尊重しあっているということになるのではないだろうか?」
 と考えていた。
 だが、その反面、
「友達って面白くないな」
 と思うようになった。
 実際に中学生くらいになると、
「誰かと一緒にいるという思いが、どこかわずらわしさを感じる。こんな思いは、小学生の頃にはなかった」
 と感じるようになった。
 それは、
「自分が思春期に入った」
 という意識がないまま、思春期にいたからであり。まるで、自分が、
「精神病にでもなったのだろうか?」
 と感じたのだ。
 小学生の頃から、母親によく、
「最近は、学校でも精神病の子がいるというから、気を付けないとね」
 と言われたものだ。
作品名:パラレル国家の真実 作家名:森本晃次