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パラレル国家の真実

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 ということであるが、もし、それが叶ったとしても、そこから先は、一切の面倒は見てくれない。
 一からスタートの世界である。しかも、それまでの学校のレベルでは、
「ダントツの天才」
 と言われたとしても、強豪校などに入学すれば、同じレベルの選手は、うようよしているといってもいいだろう。
 そうなってしまうと、
「俺たちが、優秀な選手であっても、ここでは、レベルが違う」
 ということになり、一気に目が覚めることになる。
 そして、今まで感じたことのない焦りは一気に噴き出して、今までは、
「トップを目指す」
 という加算法的な見方で練習をしていたが、今度は、
「落ちこぼれないように」
 という、後ろ向きといってもいいような、減算法的な見方になってしまって、それが、プレッシャーを増幅するということになるのだろう。
「県大会で優勝し、全国大会に出場する」
 ということで、学校の名前が有名になり、翌年の、学校志望者数が、増えることになる。
「受験者が増えるのは、その分、受験料が増えるということだが、入学してくる生徒の数に、それほど毎年変わりはないのだから、爆発的に、
「学校の収益になる」
 ということでもない。
 学校の名誉という面では確かに、名前が出ることで上がるようだろうが、だからといって、直接の収益に絡むこともないのであれば、そこまで金をばらまくように、いい選手を入れて、
「学費をタダにしてまで、する必要があるのか?」
 と思うと、少し疑問のようなものが残るのだ。
 しかも、よく甲子園などで、テレビやラジオが、
「初出場」
 であったり、
「50年ぶりの出場」
 であったり。
 かと思えば、
「ほぼ毎年出場の強豪校」
 などという言い方をするのだ。
 だから、
「初出場が、出場常連校に、胸を借りる」
 というような表現となるのだが、その言葉に何か違和感を感じる人はいないのだろうか?
 というのは、
「常連であろうが、初出場であろうが、昨年と同じ学校であっても、メンバーはまったく違うのだ。連続出場であっても、今年のレギュラーは、昨年の控えであったり、2年生で、レギュラーでなかったりするわけだから、初出場と何が違うというのか?」
 といってもいいだろう。
 要するに、
「生徒にとっては、学校が何回出場していようが関係はない」
 ということである。
 確かに、
「監督が名監督だ」
 ということはあるだろう。
 しかし試合をするのは監督ではない。監督がいくら作戦では天才的でも、選手がついてこれなければ同じことで、逆に。監督がそうでもなくても、選手の個性で勝ち進んでくるチームだってある。
 それを、
「やれ、常連の強豪校だ」
 とか、
「初出場の初々しいフレッシュなチームだ」
 などと誰がそんなことでチームを判断するというのだろう。
 プロ野球のように、
「若手との新旧交代」
 という時期に来なければ、10年やそこら、レギュラーに変わりはない。
 それでも、毎年同じチームが優勝するというわけではないのだ。
 団体戦におけるチームというのは生き物なので、勝手な判断が、どれだけの結果をもたらすというのか、アナウンサーの言葉を聞いていて、
「腹が立った」
 と思ったり、
「意味が分からない」
 と思ったりする人は少なくはないだろう。
 特に、学生スポーツは、プロとは違って、
「境域の一環に変わりはない」
 といえるだろう。
 それなのに、選手をひいきしたり、やたらと、
「県の代表だ」
 といっておだてるのが、いいことなのか、どうなのか? 考えるのも嫌になってくるというものである。
 誰も。
「生徒がかわいそうだ」
 と思わないのだろうか?
 さらに、よくマンガなどで見たのは、
「皆さんは、県の誇りです」
 などといって、新幹線の駅のホームで、万歳三唱をしながら、送り出すシーンを見るだろう。
 その時に、誰もおかしいと思わないのだろうか?
 この光景、何か他に思い浮かぶものってないだろうか?
 確かに、その時代をリアルで知っている人はまずいるわけはないが、普通にマンガなどでは見ることができる。
 そう、出征ということで、赤紙が来て、それに伴って、まわりが、
「祝 出征」
 などと書いたものを作り、いかにも、
「立派にお国のために、死んで来い」
 といって送り出すのが、戦争だった。
 だからといって、それが悪いというわけではない。確かに、時代が時代だったので、
「お国のために」
 というのも、当時は当たり前のことだったのだろう。
 しかし、今は時代が違う。それなのに、全国大会に行く選手を見送る時は、万歳三唱で送り出す。
 戦争から帰ってくる兵士は、死んで帰ってくれば、
「お涙頂戴」
 ということになるが、生きて帰ってくれば、
「お国のために、よく戦った」
 と労をねぎらわれることはない。
 特に
「敗戦国なのだから、それも仕方がない」
 ということであろう。
 ただ、あの民主主義の手本ともいうべきアメリカであっても、ベトナム戦争の時は、ひどい状態だったという。
 というのは、ベトナム戦争では、アメリカが介入してから、アメリカの兵器によって、現地民の悲惨な状況であったり、
「枯葉剤」
 などと言われるものの、散布によって、インフラだけではなく、人間の命を無差別に奪うのが目的ということになっていた。
 その惨状を世界が知ると、。今度は一転して、
「世界的な反戦ムード」
 というのが広がった。
 それによって、戦争というものの悲惨さを庶民が知ったことで、
「坊主憎けりゃあ、袈裟まで憎い」
 という言葉があるように、本来なら、国を代表して、出征したのに、まるで、
「極悪人か犯罪者」
 であるかのように、白い目で見られるのだった。
 だかr、国に嫌気がさして、他の国にいったり、他の。戦争をしている国に行って、
「自分は、戦争の中でしか生きられない」
 というような、
「ヒューマンタッチな戦争映画」
 もあったりした。
「戦争に行かずに、国内にいて、その惨状を知らない人には分からない」
 ということになるのだろう。
 それを考えると、
「代表として、おだてられたりして出ていっても、事情が変われば、自分たちが変な目で見られることもある」
 と思えば、全国大会から、途中で敗戦し帰ってきた時は、駅に誰も迎えになど来ているわけもない。
 せめて、
「準優勝以上であれば、県庁に報告に行く」
 ということもあり、学校では、英雄のように迎えられるだろうが、一回戦などで負ければ、誰も声をかけてくれない。
 選手がショックだろうから、声をかけるのも、はばかるということもあるだろうが、とにかく、その落差の激しさを見ると、
「義務的なイベント」
 としてしか考えていないということだろう。
 実際に、遠征から帰ってくると、駅などであれだけの人が、まるで出征式をしてくれたあの雰囲気が、誰も何もなかったかのように、いつもの光景を見ていると、
「ゴーストタウンの方がまだマシかも知れない」
 と思えるほとではないだろうか。
 それを考えると、
「勝負事は勝たなければだめなんだな」
 と思い知らされる。
 そして、
作品名:パラレル国家の真実 作家名:森本晃次