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パラレル国家の真実

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 ということは、諸大名を震え上がらせた。
 有力外様であった、
「福島正則」
「加藤清正の息子」
 などが、彼らも、因縁を吹っかけられての改易処分であった。
 とどめとしては、
「徳川忠長」
 であった。
 素行が悪いと言われ、秀忠に謹慎させられていた、家光にとっては、自分の実弟であるにも関わらず、
「駿河大納言」
 と呼ばれていた有力大名を、改易どころか、
「切腹までさせた」
 ということで、徳川の本気が大名たちに伝わったことであろう。
 そうなると、幕府に歯向かうという勢力が、出てくるはずもなく、幕府の体制は、そこで、十分に確立されたといってもいいだろう。
 ただ、この考えも分からなくもない。
 室町幕府が、有力大名を抑えることができず。そもそもの幕府の体制も弱かったということで、起こってしまったのが、
「京の街を、焼け野原としてしまった応仁の乱」
 というものが起こった経緯を考えると、
「幕府の体制」
 を万全としておく必要がある・
 というのは当たり前のことであろう。
 そこから起こったのが、いわゆる、
「下剋上」
 というものに裏付けられた無法コックであった、
「群雄割拠における戦国時代」
 というものであった。
 幕府の創設者である、家康の最大の目標は、
「戦国の世を終わらせる」
 ということで、何とか生きている間に達成したことで、
「元和偃武」
 ということを宣言した、
「戦国時代の終焉」
 だったといってもいいだろう。
 だとすると、それ以降の将軍は、まず第一に、
「二度と戦乱を起こさない」
 ということであり、そのための体制をしっかりと作り上げることであった。
 そういう意味では、
「秀忠」
「家光」
 という、2代にわたっての、
「幕府の基礎作り」
 というのは、一定の成果があったといってもいいだろう。
 だからこそ、260年という間。大きな内乱もなく、江戸時代が続いたのだ。
「ペリーによる、黒船来航」
 という外的要因によるものでなければ、きっと、江戸時代は、鎖国のまま。もっと続いていただろう。
 それを思うと、逆に、
「歴史というものの変革は、いきなりやってくるものだ」
 といっても無理もないことであろう。
 そんな数百年も続くであろう体制をひっくり返したはいいが、新たに作り上げることがどれほど大変かということを、刑事の元勲は、
「外国に習う」
 ということで達成しようと考えたのであった。
 そんな日本に、戦後から蔓延ってしまった精神疾患という病気には、さまざまなものがあった。
 かつての、
「時代の変革」
 であった、明治維新に勝るとも劣らない、戦後の日本。
 それは、それまでの大日本帝国が経験したことのない、対外戦争における敗戦であった。
 もちろん、ノモンハン事件のような、国境紛争のような、
「小競り合い」
 というようなものでの、局地的な敗戦というのは、いくつもあった。
 しかし、
「国家の興亡を掛けた戦い」
 というものに初めて敗れた日本であり、しかも、その状態は、完全に完膚なきまでのものであった。
 国土は焦土と化し、焼け出された人々は、バラックを作って、その日一日を、
「いかにして生きるか?」
 ということばかりが問題になっていたのだった。
 そんな世の中において、
「それまでの教育、さらには、国家体制が、占領軍によって、まったく違うものへと生まれ変わらせるのだ」
 しかも、その国家体制は、それまでの日本人が考えたこともない体制であった。
「国家のために、愛国心を持って、さらには、天皇陛下を神と崇めて、自分たちは、天皇のために死ぬことを悦びとされた」
 そんな時代だったのだ。
 それが、
「民主国家」
 ということで、それまでの国防を担ってきた、軍の解体。
 それにともなった、武装解除。
 そして、
「鬼畜米英」
 などと教え込まれ、敵国を殲滅するということが、日本という国に住む自分たちの生きる道だと教え込まれてきたものを、いきなり、
「人類は平等であり、国家の主権は国民にある」
 と言われ、
「個人の人権は保障される」
 と言われても、すぐには、納得がいくものではないだろう。
 何といっても、それまでの日本民族は、貧しい中にも、誇りをもって生きてきたのに、その誇りを、敗戦という形で失うことになり、占領軍による統治、さらには、日本が作り上げようとしてきた、
「大東亜共栄圏」
 というのも否定され、すべてを、勝者の論理で、日本を否定されたのだから、国内で、精神疾患の患者が増えても、無理もないことであろう。
 生き抜くために、治安は悪くなる。
 確かに、戦時中のように、空から焼夷弾が降ってくることはなくなり、
「今日明日の命」
 ということはなくなったが、食料もなく、すべてが配給ということで、その配給もほどんど滞っている状態で、こちらも、
「今日明日の命」
 といっても、無理もないことであろう。
 そんな状態において、日本人は。
「戦争」
 というものを、今までは、
「決して敗れることのない」
 という不敗神話で、見てきたものだ。
「国民生活も我慢していれば、いずれ、勝戦国ということになり、いずれは、国家が興盛国となることで、自分たちのプライドが保たれ、国家の安寧が約束される」
 ということになると、信じて疑わないことであろう。
 それが、敗戦ということになり、それまで味わったことのない屈辱と、苦しみを味わうことになる。
 それが民主化の第一歩であり、それがよかったのか悪かったのか、今の段階では、その答えは出ていないだろう。
 そんな答えが出ないことは、前述のように、
「何が答えなのかが判明しない限り、永久的に出る答えではない」
 ということになるのだ。
 そんな答えを見つけるには、まず、自分が答えを出すということが大前提ではないだろうか?
 確かに何が答えなのか分からないが、最終的に、
「決めるのは自分」
 ということである。
 ということは、決めるための材料、つまり考え方を見つけるのも自分であり、答えだと言い切れるまでに、自分を高めるのも、自分である。
 そのことを、誰が分かっているというのか、それを考えると、
「どこに、その答えがあるというのか?」
 そんなことを考えていると、
「問題は、その考えをはぐくむだけの環境が、その場にあるかどうか?」
 ということになる。
 その時代の日本にあるわけはない。精神疾患の人が増えてきて、先の見えない状況において、本来であれば、国民に前を向かせるだけの力がない状態の政府では、何もできるわけはないということである。
 そういう意味では、
「大日本帝国というものを、臣民を導くということでの体制というのは、いい悪いの判断を抜きに考えれば、少なくとも、今の時代にはないものである」
 といえるだろう。
 実際の政治体制にて、民主主義というものの基本として、
「自由、平等、博愛」
 というものが、民主主義だと言われているが、果たして、
「この三つが、共存できるということなのだろうか?」
 ということである。
 つまりは、
「自由というものを優先させれば、平等であるということはありえない」
作品名:パラレル国家の真実 作家名:森本晃次