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パラレル国家の真実

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「ある意味、答えはいつでも、そこにある」
 という理屈が成り立つとすれば、
「意識するかしないかで決まってくる」
 ということになる。
 しかし、決まっていることを、逆に意識すると、見えているものが見えないという状況に陥ってしまい、そこにある答えが、実は見えていないだけだということになってしまうのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、
「石ころというものの存在」
 ということを考えてしまう。
「自分から相手のことは見えているのに、相手から自分のことが見えていない」
 ということを考えたことがあるだろうか。
 今であれば、(いや、当時からあったかも知れないが)
「マジックミラー」
 というものがそういう存在だったのではないだろうか?
「警察の取調室」
 などというのが、そのいい例で、
「取調室の中において、容疑者を刑事が取り調べている時、その事件の目撃者であったり、証人のような人がいる場合、出頭をお願いし、隣の部屋から、相手にはこっちは見えないということを言っておいて、実際に見た人と同じかどうかを証言させる」
 というのがm取調室におけるマジックミラーのやり方だった。
 両方の部屋に、まるで窓のように鏡を埋め込み、
「相手からはこっちが見えないが、こっちからだけ見える」
 という仕掛けで、相手側には、ただの鏡にしか見えたというものである。
「そこがマジックミラーだ」
 ということが、容疑者に分かっているとしても、何ら問題はない。
「相手に顔を見られるに、相手の顔を確認できる」
 ということができていれば、それだけでいいということになるのだ。
 目的は達成されたといってもいい。
 これは、他でも利用されている。
「こちらを確認されず、自分だけが相手を確認する」
 という意味で、
「鉢合わせになってはまずい」
 という意味で、
「風俗の待合室」
 などでも使われていたことであろう。
 もっとも、今は、マジックミラーなどを使わなくとも、防犯カメラというものが、マジックミラーの役目をはたしてくれる。
 そもそも、防犯カメラの普及は、爆発的になっていて、防犯カメラというものが必須ということであるなら、
「マジックミラーは必要ない」
 といってもいいだろう。
 ただ、この
「マジックミラー」
 という発想は、
「石ころのような発想だ」
 といっていいのだろうか?
 たとえば、河川敷のようなところにある、河原に、たくさんの石が落ちている。
 石に意識があったとして、見つかっては困るという意識を石ころが持っていた場合、そこには無数の石ころが落ちているわけで、覗き込んでいる男が、何かの理由でその中の一つを選ぶ場合。普通であれば、まったく無意識になるのは当たり前だろう。
 石ころに、
「意識」
 というものはないだろう?
 と思えるのだが、果たして、本当にそうなのだろうか?
 人間には、
「石ころには意識がない」
 ということを分かっているので、石ころの一つを選ぶのに、悩んだりはしないだろう。
 悩むとすれば、あくまでも、外見だけで、
「自分が必要とする、その形のものであるかどうかだけでしか、見ていない」
 ということになるのだ。
 しかし、石ころに、
「人間と同じような意識があって、それを、人間に悟られるということは許されない」
 というのであれば、石ころの意識は、必要以上のものだといってもいいだろう。
 石ころがどのようなものであるか?
 ということを考える人など。いないに違いない。
 ただ、人間の中には、
「石ころがうらやましい」
 と思っている人もいるだろう、
「こっちが意識さえしなければ、相手が意識をするわけはない」
 というもので、石ころに至っては。
「こっちが意識をしても、相手が意識をするなどということもないに違いない」
 ということになるであろう。
 それが、一種の、
「石ころの魔力」
 というもので、
「石ころのもって生まれたものであり、一種の保護色と同じ発想でできているということではないだろうか?」
 と考えられるものだ。
「保護色」
 ということであれば、
「石ころには人間を天敵とする何かがあるということなのか?」
 ということで、この、
「天敵」
 という言葉を思った時、感じたのが、
「三すくみの関係」
 というものであった。
「三すくみ」
 というものは、
「個々の力の均衡が、バランスを取っている」
 というわけではなく、逆に。
「3つのうちで、相手二つに対しての関係の優劣がハッキリとしていて、それが、
「動くことのできない」
 という関係を作っていることで、それぞれに、
「抑止力が働いている」
 ということから、結論として、
「動いた方が負けである」
 ということを証明しているという関係であった。
 だから、石ころとは別に、絶えず、
「自分に対して優位性を持っている相手を少なくとも意識しなければならない」
 ということになる。
「果たして、この三すくみというものの中に身を置いた時、自分が三すくみの中にいて、自分に対して、絶対的優位の相手を分かって見ているのだろうか?」
 ということを考えてしまうのだ。
 それがどういうことなのかというと、
「気を抜いてしまうと、食べられてしまう」
 ということが、本能的に分かっている。
 あくまでも、
「自分が助かるにはどうすればいいか?」
 ということなので、
「動かないに越したことはない」
 というのが当たり前の発想であろう。
 ただ、それはあくまでも、
「力関係」
 ということへの意識だけで、本能というのが、すべて、
「恐怖心として考えているからではないだろうか?」
 ということである。
 しかし、これは、それだけのことではない。
 本能ということになると、もっと深く考える必要があるだろう。
 といっても、ここでの本能は、深く考えるわけではなく、自分の中にある、当たり前の本能というものを思い知らされるということになるのだろう。
 某物の本能というと、まずは何といっても、
「食欲」
 である。
 人間であれば、その他に、
「睡眠欲」
 であったり、
「性欲」
 というものがある。
 そのどちらも、動物にだってあるだろう。
 特に、
「性欲というのは、種の保存という意味で、欲というものから切っても切り離せないものだ」
 といえるのかも知れないが、
「動物は、人間のように、
「快楽を求める」
 という感覚があるか?
 ということである。
 少なくとも、人間以外の生物に、
「罪」
 という意識はないだろう。
 人間の場合では、
「相手に、その気がないのに、性行為に及んだ場合は、強制的だ」
 ということで、罪に問われるということになる。
 それは、あくまでも、
「人間には、自由があるということで、他人がその自由を奪い、相手を傷つけるということになれば、犯罪以外の何物でもない」
 といってもいいだろう。
 それは、
「加害者が、自分の快楽を求めるために、相手を蹂躙し、強引にことにいたり、自分の快楽だけを満たす」
 という、一種の
「不公平」
 つまりは、
「不平等」
 ということをいうことで、
「許されることのない大罪」
作品名:パラレル国家の真実 作家名:森本晃次