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三人三様

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 というのがどういうことなのか、考えてみた。
「それは、まず、殿山の中で、自分の性格がカチッとしていることが必要なのではないか?」
 と感じたのだ。
 本人が、
「ブレない気持ち」
 というものがあることで、まわりが、何か策を弄する形になっても、
「微動だにしない」
 ということだなれば、殿山にとっても、まわりにいる人にとっても、
「どこか歪なのかも知れないが、全体的にずれているだけで、その距離感に、違和感はないのだ」
 といえるのではないだろうか。
 それを思うと、まるで、
「慣性の法則」
 というのを見ているようで、その感覚が、悪いことではないと思えるようになったのであった。
 殿山という男を見ていると、
「目立たないところが、人を引き付けるという不可思議なところを持った人物だ」
 と、大迫は思っていた。
 では、
「そんな大迫を、殿山はどのように思っているのだろう」
 正直、
「坂口を通して見ている」
 という感覚が強かった。
 それは、
「大学時代という感覚が、自分の中ではるか昔」
 と感じるからだった。
 大学時代というのは、自分にとってみれば、
「まるで、前世のようなものだ」
 といっていいほど、
「大学を卒業し、社会人になった」
 ということが、
「人生の中で、大きな転機だった」
 といってもいいだろう、
 そもそも、殿山にとって、
「俺の人生で、そんなに大きなターニングポイントなんてなかったな」
 というのは、学生時代に、それほどいろいろなターニングポイントがなかったことで、
「社会人になると、突然、いきなり襲ってくるであろう、転機に、俺は果たして対応することができるだろうか?」
 ということが大きかった。
 だが、社会人になってからの方が、ほとんど何もなく、毎日のように、
「ただ、時間が過ぎていく」
 ということだったのだ。
 大学の頃は、
「もっといろいろ目標があったりして、楽しかったりしたのにな」
 とも思えてきて、実際に、恋愛などはできなかったが、
「明日には、きっと俺の前にふさわしい人が現れる」
 と、根拠もないことであったが、意味があるのかないのか、妄想を抱いてしまっていたりしたのだ。
 それが、大学時代と、社会人になってからの一番の大きな違いだと思っていた。
 大学時代は、
「とにかく、何をやっても楽しい。だから、楽しいだけに、その時に本当にやらなければいけなかったということ、そして、やりたいと思うであろうことを、見逃してしまっていたのではないか?」
 という後悔があるというのも、事実であった。
 だから、意外と大学の4年間は、
「あっという間だった」
 という意識がある反面、社会人になってからと比べると、
「結構長かったんだな」
 と感じるのも、無理もないことだと思っていたのだ。
 社会人になると、最初の頃は、
「毎日が勉強だ」
 と思っていた。
 だが、毎日が、つまらないという思いもあったのだ。
 その思いがどこから来るのか?
 ということを考えてみると、それがどこからなのか、少しすると分かってきた。
「大学4年生の次は、社会人一年生である」
 という、これがすべてだったのだ。
 つまりは、
「学生という枠の中では、最高のところから、社会人になると、一番下のところにいる」
 ということになり、先輩からは、
「大学を出たての、まだ、学生気分が抜けていない、甘ちゃんだ」
 と思われていることだろう。
「自分たちだって、去年は同じだったじゃないか」
 と言いたいが、だからこそ、悪しき伝説ということで、毎年同じ発想が受け継がれていくことになるのだろう。
 それはまるで、
「子供が親から受けた仕打ち」
 というものを、
「俺は大人になったら、絶対に、自分の子供には、そんなことはしない」
 と思っていたはずなのに、
「いざ大人になると、そう思ったことを忘れるのか、結局同じことを自分の子供にもしている」
 ということで、
「そりゃあ、親子関係が改善されることなどないわな。要するに、社会の変化に、家族関係がついていけていないわけだから、親による子供の虐待だったり、逆に、家庭内暴力のようなことだって起こるわけだ」
 と、家庭内の問題は、
「どうせ、いつまで経っても平行線さ」
 ということで、解決などできるはずがないということになるのであろう。
 大迫を見ていて、殿山も、
「やつも同じなんだよな」
 と、自分が、大迫の親にでもかったかのような錯覚に陥っていた殿山が、それ以上に余計なことを考えると、
「大迫という人間を見失い」
 と考えたことから、
「その間に、坂口という男を、ワンクッションとして考えよう」
 と思うようになったのだった。
 確かに、大迫というのを見ていると、
「自分の学生時代よりもしっかりしている」
 という思いはあった。
 確かに、
「時代が違う」
 ということはいえるのだろうが、
 ただ、
「俺と、かぶるところが結構あるんだよな」
 と考えていた。
 そして、そのくせ、
「俺はきっと大迫のことをまったく分かっていないんだろうな」
 とも思うようになっていったのも、事実であった。
 大迫を、坂口の延長上にして見るようになると、まるで、その間に、大きなメガネが据えてあるという感覚になった。
 大迫というのは、
「このまま、社会人になった時、坂口とも、俺とも違うタイプの社会人になるような気がするな」
 と考えることで、
「楽しみだ」
 という思いと、
「いや、結局は、どちらかのようになりそうな気もするんだよな」
 と考えたことが、自分の中で、ホッとした気分にさせるという意識があったのも事実であった。
 坂口を見ていると、見えているのは、
「二人を同距離にとらえている」
 という感覚であった。
 これは、実は、殿山だけではなく、大迫も感じていた。
 当の本人である坂口も、もちろん感じていることなので、
「この考えに関しては、満場一致だ」
 といえるのではないだろうか。
 三人とも、意識をしてるかどうかわからないが、
「意外と、三人が合致した考えにいたるということは、ほとんどない」
 ということであった。
 どちらかに近い意見というよりも、
「片方には、合致する意見であるが、もう一人には、まったく受け入れられないという感覚で、そのたびに、相手に歩み寄ることになれば、その結果は、うまくいくものもいかなくなる」
 ということになるのではないだろうか?
 それでも、まわりの二人から見ると、それぞれに、もう一方の相手との距離と似ているということは分かっていた。
 しかし、
「それが、三角形の形をしている」
 ということを、分かっているのかいないのか、難しいとことであった。
 これが、前述の、
「三すくみの関係」
 あるいは、
「三つ巴の関係」
 のどちらかなのではないか?
 と考えられるのであった、
 ただ、もっと考えれば、
「三すくみの中に、三つ巴がある」
 という考え方。
 逆に、
「三つ巴の中に、三すくみがあるのではないか?」
 という考え方があるのではないかと思うと、
「彼ら三人を、誰から目線で見ればいいのか?」
 ということが問題になる。
作品名:三人三様 作家名:森本晃次