三人三様
言葉の魔力
その日、性口は、いつもよりも、少し酔っているかのようだった。
実際には、
「三人が三人とも酔っぱらっては、収拾がつかなくなる」
ということで、いつも、セーブしながら飲んでいるのが、大迫だった。
本当であれば、冷静沈着な雰囲気もあり、一番年上の殿山の立場がその役にふさわしいのだろうが、酒に関しては、結構好きだということで、ここでは、本当は、
「あまり酒が好きではない」
という大迫がその役を買って出たようなものだった。
といっても、歴然とその役が決まっているわけではなく
「三人の中で」
ということで、決まった役が、この大迫だったのだ。
実際に大迫という男は、見た目は、殿山が一番しっかりしているようだが、実際には、大迫の方がしっかりしている。
それは、大学生という立場がそうさせたのかも知れない。
大迫は、引っ込み思案なタイプに見えるが、それは、自分が、
「社会人にはかなわない」
と思っているからだった、
一度でも、社会人として仕事をしたことがない人間が、大人の二人に逆らうことなどできない。
という思いがかなり強かったりする。
他の二人は、そんな意識はないのだが、それは、相手が、大迫だからである。
大迫に対しては、二人とも、それなりに、敬意を表していた。
この控えめな性格も、結構いいところがあると思っていて、それが、大迫にいいように働くのか、ちょうどうまく、大人二人の間に入る形で、そういえば、ここ半年近く、ずっとここで飲んでいるのに、険悪な雰囲気になったことなどなかった。
「半年も、週に数回一緒に飲んだりしていれば、数回くらいは、喧騒とした雰囲気になってもよさそうなんだけどね」
と、ママさんは言っていた。
「そうなのよ、やっぱり、大迫さんの力ってすごいわね」
と、あかねは、どうやら、大迫を中心に見ているようだが、その視線はまんざらでもない、結局は、あの三人のグループは、何といっても、中心にいるのは、大迫なのだからである。
それをママも、あかねも分かっているが、実際に、当の本人たちは、どうなのだろう。
実は、三人が三人とも、
「俺たちのグループの中心は、坂口だ」
と思っていた。
坂口本人は、普通に、そう思い込んでいるだけだった。
つまりは、
「自己顕示欲の強さが、そのまま出ている」
ということである。
大迫とすれば、
「自分にとって、いい兄貴分」
ということで、慕ってもいるが、逆に、
「反面教師」
という面もあり、大迫には、坂口の、
「悪い面」
というのもちゃんと見えていて、そこは、
「反面教師として、悪いところは悪い」
ということで、見ていこうと思っていたのであった。
というのも、
「坂口さんは、俺の想像するような過ちを犯してくれる」
というところがあった。
特に、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
ということで、言動に関しては、いつも、
「一言多い」
と言われていた。
どんな過ちが多いのか?
別に酒が入ったからというわけではないのかも知れないが、とにかく、一言多い時がある。
それは、仲間内の時でも、それ以外でも関係ない。それを思うと、
「この一言多い」
という性格は、坂口という男の、
「真の性格」
なのかも知れない。
と思える。
そう感じてしまうと、
「なるべく、あの人を他のグループに近づけないようにしないといけない」
ということで、内輪で、坂口を囲むように飲みという感じになったのだ。
それが、
「三人の中心にいつも、坂口がいる」
という感じにまわりから見えるようになったのだった。
殿山にしても、大迫の気持ちが分かったことで、坂口を中心にしているのだろうが、それだけではなかった、
「坂口を中心に据えた方が、俺の方が目立つかも知れない」
と考えていた。
殿山は、どうしても、
「計算高い」
というところがあり、まわりに対して、
「殿山は、聖人君子だ」
というイメージを植え付けるところがあったからだ。
そのためには、
「神輿である坂口を担ぎ出し、その中心に自分がいる」
ということを思い込ませることが一番だった。
大迫は、そこまで考えているわけではなく、あくまでも、
「大人をリスペクトしている」
ということで、殿山とすれば、
「願ったりかなったり」
という立場が、
「大迫の立場」
といってもいいだろう。
大迫にとって、殿山という人間の立場は、
「坂口さんを自分たちの中心に据える」
ということで、
「一番のキーパーソンだ」
と思っていたのだ。
大迫とすれば、殿山という男が、
「本当に聖人君子のような人なのかどうか」
という疑いの目があった。
ただ、別に、殿山に、
「聖人君子」
のような立場を望んでいるわけでもなんでもない。
ただ、見た目がそうであるから、
「それなら、その雰囲気でいてくれる方が、都合がいい」
と思っていたようだ。
殿山という男は、大迫が思っているよりも、もっと、計算高い男のようで、それが分からないのも無理はない。
何といっても、年齢差が、30歳以上もあり、
「まるで、親子」
といってもいいくらいで、どうかすれば、
「父親よりも年上だ」
といってもいいくらいであろう。
年上というと、今まで、学校の先生くらいしか、相手にしていなかった。
もちろん、親というのは特別なので、同じ大人でも、見方が違っている。
中学、高校の頃の先生というと、
「一線を画した」
というところがあり、
「リスペクト」
というよりも、近寄りがたい雰囲気があったといってもいい。
だが、大学に入り、教授の下で、皆和気あいあいというゼミの生活をしていると、まるで、教授が、
「兄貴」
という雰囲気に感じられるようになるのであった。
年齢は、今の殿山と同じくらいかも知れない。
しかし、殿山を見ていると、とても、
「兄貴」
とは思えない。
だから、大学教授に対しても、殿山に対しても、
「リスペクト」
というのを感じていたが、同じリスペクトであっても、その感覚はまったく違うものだった。
教授の場合は、どうしても、
「同じ研究をする同士」
ということであり、さらに、そこには、主従関係のようなものがあった。
それは、
「教授と学生」
ということで、高校生までの、
「先生と生徒」
という雰囲気とはまた違うものなので、そのリスペクトの感覚は、
「学問だけではなく、人間的にも言えることなのではないだろうか?」
ということであった。
殿山に対しては、
「学問的なものは、まったくない」
といってもいいので、そのすべては、
「人間性」
というものによるものである。
だから、殿山は、大迫にとって、やはり、
「人生の先輩」
という意味での教師に見えたのだ。
だが、
「そこまでリスペクトするのは、違うのではないか?」
と思えていた。
それは、殿山を見ていて、
「あれは、作られた聖人君子ではないか?」
と思ったからだ。
それにしても、
「作られた聖人君子」
というのは、どういうことなのだろう?
「人の性格を作る」