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三人三様

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「かわいがっているつもりなんだけど、どうもなついてくれていないような気がするのよね」
 といっていたが、自分でも、
「前世がナメクジだったのではないか?」
 と感じるくらいなので、ヘビに怖がられるというのは、当たり前のことであろう。
 それを考えると、逆に、
「ナメクジが自分の前世」
 と感じたのは、
「元々がヘビが好きなのだが、そのヘビに、怖がられている」
 という意識を、子供の頃から持っていて、それが三すくみの話というものを聞くことで、
「前世がナメクジだった」
 という発想は、
「帰納法」
 と呼ばれるものから、来たのではないか?
 と考えることもできるだろう。
「逆も真なり」
 という言葉があるが、これは、その状況からだけではなく、理屈から考えて。そう思えることであっても、いえることではないだろうか?
 考え方が、逆になったとしても、それが、いかに理屈に合いさえすれば、
「それが、真実だ」
 といえるのではないだろうか?
「事実というのは、一つしかないが、真実は、決して一つではない」
 と思っている。
 テレビのアニメなどで、
「真実は一つ」
 といっているのを聞いて。子供心に、
「なんでなの?」
 と、あかなは感じていた。
 あかえんという女性は、
「私は、嫌いな人は徹底的に嫌いになるタイプだから」
 とよく友達に言っていたが、これは裏を返すと、
「好きになった人は、徹底的に好きになる」
 ということになるのではないだろうか。
 と、今まで、あかねのまわりの人は皆、あかねをそういう目で見てきて、その周りから、
「あれは勘違いだった」
 と感じる人が、
「一人もいなかった」
 ということで、証明されたかのようだった。
 あかねは、だから、
「あまり人を好きになることはしないでおこう」
 と思っていた。
 人を好きになると、
「誰かを困らせることになるかも知れない」
 と感じるのだった。
 だから、中学、高校生という、思春期には、
「なるべく、おとなしくしていよう」
 と思っていたのだ。
 だが、それは、自分だけではなく、まわりの女の子もそうだった
 そして驚いたことに、
「彼女たちの性格は、まるで今の私と同じことを考えているような性格なんじゃないかしら?」
 と感じた。
 どうしてそれが分かったのかというと、
「性格が似通っているから分かるというものだ」
 ということであり、
「少しでも、相性や性格が合わないと思えば、相手のことを分かるわけもない」
 と考えたからであった。
 だから、性格の合う合わないというのは、
「相手が異性、同性で、同じものだ」
 と以前は思っていたが、いつ頃からなのだろうか?
「明らかに違う」
 と思うようになった。
「異性を意識するという、人間でいうところの思春期というものは、他の動物にはあるのだろうか?」
 と考えた。
「他の動物には、発情期というものがあって、その動物によって、その状態が違う」
 といってもいいだろう。
「特に、年がら年中発情期」
 という動物もいれば、
「季節によって決まっている」
 という動物もいる。
「要するに、動物というのは、本能で動いているので、その目的は一つしかなく、子孫繁栄しかない」
 ということであろう。
 ただ、これは人間にとっても同じことである。基本的には、
「子孫繁栄」
 というものから始まっているが、これが聖書などになれば、
「恥じらいという感情を覚えたことで、まわりを意識するようになる」
 というのが、
「禁断の果実」
 を口にしたイブが、急に恥ずかしがる素振りを示したことで、聖書では、
「人間の最初の感情は、恥じらいなのではないか?」
 といえるのではないだろうか?
 しかし、これが、ギリシャ神話となるが、少し事情が違ってくる。
「男女が最初からいて、聖書に出てくる、アダムとイブ、日本における古事記に出てくる、
いざなぎイザナミのようなものとは違う」
 というのがギリシャ神話であった。
 ギリシャ神話では、
「最初から人間界に女性がいたわけではない」
 と言われている。
 であれば、人類は誰から生まれたのか?」
 ということになるのだが、それはさておき、ギリシャ神話においては、
「人類最初の女性というのは、パンドーラである」
 ということである。
 このパンドーラと呼ばれる女性は、
「パンドラの匣」
 といえば、分かる人もいるだろうが、
「決して開けてはいけない」
 という、
「見るなのタブー」
 と呼ばれる、一種の、おとぎ話や神話にはよくあるパターンである、その
「パンドラの匣」
 を開けてしまったことで、
「人間世界に、不幸が蔓延し、その中で、箱の最後に残ったのが、希望だった」
 というような話であった。
 そもそもの話としては、
「万能の神」
 であるゼウスが、
「人間に、火を与えてはいけない。人間のような連中に与えると、ろくなことにはならない」
 と言ったにもかかわらず、
「プロメテウス」
 という男が与えてしまった。
 ゼウスが怒り、プロメテウスには
「死ぬよりもつらい罰」
 というものを、そして人間界には、
「人類最初の女性」
 と言われる、
「不幸を与えるために生まれた」
 という、
「パンドラという女性」
 を、人間界に、箱を持たせて、放ったのである。
 それが、人類最初の女性である、パンドラということであったが、ギリシャ神話では、
「神が遣わした人間に対しての、罰を与えるために道具だ」
 ということであったのだ。
 ただ、このパンドラに、感情があったのかどうかまでは分からないが、聖書における
「イブ」
 という、聖書における
「世界最初の女性」
 は、
「禁断の果実をかじった」
 ということで、恥じらいという感情を持った。
 これが、
「動物にはない、感情というものの、原点ではないか?」
 ということになるのであろう。
 そんな、あかねだったが、
「今まで、結構な男性を好きになったことが、実はあった」
 しかし、だからといって、告白できるようなわけでもなく、最初には、
「一気に盛り上がる」
 という感じであるが、徐々に、気持ちがダウンしていき、
「それまでの気持ちがどこから来たのかすら、分からなくなる」
 といってもいいだろう。
 要するに、
「熱しやすく冷めやすい」
 という性格なのであった。
 熱しやすく冷めやすいという意味でいけば、なぜか、あかねは、
「金属を想像する」
 ということであった。
 確かに、熱しやすいところはあるが、本当に冷めやすいのかというと、どうもそうではないという感覚が残るのであった。
 そして、
「どうして、金属を思い浮かべるのか?」
 というと、それは、
「刀鍛冶」
 というものを思い浮かべるからだった。
 刀を火の中に入れて、そこで、ハンマーで打つというのが、刀鍛冶というもので、
「鉄は熱いうちに打て」
 と言われるゆえんということである。
「鉄は熱いうちに打つほど、効果がある」
 ということであろうか、似たようなものは、この世にはたくさんあるのかも知れない。
 何かをする時、あるいは、
「利用する」
 という時、それぞれに、タイミングというものがある。
作品名:三人三様 作家名:森本晃次