三人三様
だから、他の人がどう思うかは分からないが、殿山とすれば、
「友達というよりも、仲間といえるような人をたくさん作りたい」
と思っていた。
しかし、
「仲間というのは、趣味趣向でつながっている場合が多く、その仲というのは、自分の中の、孤独というものと、関係のないところではないだろうか」
つまりは、
「仲間がいても、孤独な時は孤独だし、仲間がいなくても、孤独でないこともある」
だから、
「孤独だった」
といっても、寂しかったかどうかというのとは、結びつく考えではなかったといってもいいだろう。
そういう意味で、
「仲間ではない友達」
というものは、結構少なかったかも知れない。
そもそも、
「仲間の中に、友達がいる」
あるいは、
「友達の中に、仲間がいる」
という考えは、
「ほとんどなかった」
といってもいい。
だから、
「友達と、仲間というのは、根本的に違うものだ」
といえるのではないだろうか。
確かに、
「友達がほしい」
という感覚と、
「仲間が欲しい」
と思う時の感覚は違っているものであり、
「仲間が多い時に、友達を増やしたい」
という考えはなかった。
「仲間と充実した生活が送れているのであれば、友達のようなものがほしいとは思わない。そう感じるのは、友達を億劫だと思うからだろう」
と考えるのだが、それは、
「日ごろから、友達を億劫だ」
と思っているわけではなく、あくまでも、
「仲間が十分な時に、友達の存在が億劫だと思うだけで、ある意味、仲間の中に、友達がいるということはあり得ない」
という考えの裏返しだといってもいいだろう。
それを考えると、
「億劫なことに、自ら飛び込んでいく必要もないのに、仲間の中には、友達が別にほしいと思っている人が結構いるように見えるのは、どうしてなのだろうか?」
と、考えるのであった。
そんな、殿山だが、
「だからこそ、聖人君子に見えるのだろうか?」
と感じるのであった。
この三人は、それぞれに、
「三人三様の面白さ」
というものがある。
そんなことを、三人とも思っているという共通点はあるが、それ以外に、少なくとも、外見上は、
「まったく違っている」
といえるのであった。
あかね
その三人が、このスナックに来るようになったのは、ママの話でいけば、
「皆、同じくらいに来るようになったわね」
ということであった。
しかも、
「三人が、単独でくるということは、あまりないのよ」
というのを聞いて、三人とも、
「そういえば、いつも誰かいたような気がしたな」
といまさらながらに考えるという感じであった。
それを大迫は、素直に喜んでいた。若いだけあって、柔軟な考え方だといえるのではないだろうか。
坂口は、
「俺が、会いたいと思うから会えるんだ」
という、どこか自信過剰なところがあった。
そうでもなければ、平然と、
「不倫を繰り返す」
というようなこともないだろう。
ちなみに、奥さんが浮気をしているということも分かっている。お互いに分かったうえで、何も言わず、ある意味、
「夫婦生活を、演じている」
といってもいいだろう。
その気持ちは、
「結婚してから、分かったことだった」
ということであり、
「結婚は、人生の墓場だ」
という人がいたが、その思いに逆らう気持ちになっていたのだ。
ただ、他の人とその考えは違っていた。
他の人であれば、
「結婚は、墓場などではなく、本当に楽しいものだ」
という能天気な考えの人がほとんどなのだろうが、坂口は、
「結婚してみないと分からないことを知ることができるのだから、それこそ、結婚くらい、一度はしてみればいい」
というような考えを持つことができるのだが、それは、
「人生をあくまで、自分の都合よく生きることができる」
という考えが下になっているのではないか?
ということであった。
「そもそも、結婚というものには、目に見えない結界のようなものが、存在しているのだろう」
と思っていたのだが、実際には、本当に見えてこないのだった、
それは、
「気配も感じない」
ということであり、
「何かあるのであれば、気配くらいは感じられるはずだ」
と考えていた。
だから、
「俺にとって、結婚というものは、人生の分岐点を、客観的に見れるというものであり、そのこと自体に意味はない」
とすら考えていて、
「離婚などいくらでもすればいいんだ」
というくらいに考えていたのだ。
もっとも、今の時代は、バツイチなど、別に珍しくもない。
「転職するのと、何が違うというのだ」
ということで、
「転職であれば、キャリアアップ」
ということになるが、なぜ、結婚でも同じことが言えないのだろう?
と不思議に思う、坂口であった。
坂口の話では、
「結婚なんて、面白くはない」
といっていた。
最初は、
「この人は、聖人君子ではないか?」
と思っていたほとんどの人たちは、数回会えば、
「あの考えは間違いだった」
と、みんなが感じるだろう。
というのも、
「熱い人間だと思っていたけど、どうも、冷静沈着な性格なのではないか?」
と思えてきた。
最初に、
「熱い人間だ」
と感じたのは、
「勧善懲悪な性格」
というところが、前面に出ていたからなのかも知れない。
だが、えてして勧善懲悪な人間ほど、その性格というのは、結構、冷酷な性格なのかも知れないと思った。
「いや、それよりも、熱い性格の裏に、冷戦沈着さが隠れている」
あるいは、
「冷静沈着な裏に、熱い気持ちが見え隠れする」
ということなのかも知れない。
それを、見え隠れさせているところが、どこかあざとさのようなものを感じさせるところが、殿山とは違うところであった。
坂口は、実は殿山が苦手だった。
「嫌いだ」
といってもいいだろう。
しかし、そのことを他の人に感じさせることは嫌だった。
それは、殿山が、
「聖人君子」
に見えるからで、そう見える以上、
「俺が、殿山に追い越すはおろか、追い付くことすら、できない」
ということになるのだ。
それを、坂口は、自分でもそのことを
「認めたくない」
という思いだけではなく、
「まわりにも感じさせたくない」
という思いにまで至るのだった。
殿山という男が、
「少し、鬱陶しいな」
というのは、実は、大迫も感じていた。
「大迫だから」
というわけではなく、大学生ということなのか、それとも若さゆえ、ということんいなるのか、
「殿山さんは、やっぱり、昭和の人間なんだ」
ということであろう。
坂口から見ても、そう感じるのだから、大迫からすれば、まるで化石のような存在といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「三人は、友達ということであるが、それ以上でも、それ以下でもない」
という、
「典型的な友達」
といってもいいだろうと、店の女の子は感じていた。
ここの店の女の子は、3人いる。
その中で一番多く会うのが、
「あかね」
という女の子だった。