三人三様
というものが出されている時、外出はおとか、出社すらできない。
以前であれば、
「会社に行くのも億劫だよな」
と、毎日の判で押したような性格は、鬱陶しさしかなかったのだ。
毎年、夏休みには、家族旅行というのが、恒例だったが、これも、家族への、
「いい夫アピール」
というものであり、そのたびに、
「自分の本性とのギャップ」
というものに、苦しんでいたといってもいい。
「家庭環境は、まあまあいい」
と思っていた。
「嫁さんは、まだまだ新婚だと思っているだろうな」
というもの、まだ結婚してから、一年とちょっとくらいである。
「それなのに、不倫相手がいる」
というのは、実は、
「結婚前から、二股をかけていた」
という、ある意味、ゲスな男で、
「女の敵」
といってもいいかも知れない。
だからこそ、余計に、
「もう一人の自分を、いかに、自分の本性として、表に出さなければいけない」
ということに繋がるのだった。
もっといえば、
「いい加減、二重人格性の片方をひた隠しにするのも疲れた」
ということである。
そもそも、
「嫁さんと結婚する気になった、その時の自分の心境が分からない」
と思っていた。
「結婚するということが、どんな心境なのか、味わってみたかった」
という気持ちがあったのは分かっているが、それ以外にも何かを感じたはずだったが、覚えていない。
しかし、
「結婚というもの。してみたいと考えただけで、そう簡単に踏み切ることなどできるわけもない」
といえるだろう。
その時、自分の中で、
「二股をかけているのに、疲れた」
という思いがあったに違いない。
結婚するということが、どういうことなのか、正直自分でも分からなかった。だから、
「してみたい」
と思ったのだろうが、実際に結婚してみると、
「なんだ、ただ一緒にいるというだけではないか」
と感じた。
「もっと、いろいろ責任がのしかかってくるものなのだろう」
と思っていたが、
「実際に、のしかかっているのかも知れないが、そんな自覚はない」
としか思えなかった。
それは、新妻が、
「それだけ、旦那に、気を遣わせないという性格だったからだ」
というだけのことで、それに甘えるかどうかは、旦那の裁量に掛かっていた。
どうやら、坂口という男は、それを素直に、額面通りに受け取るところがあり、それだけ、
「自分に都合よく解釈する」
ということで、それだけ、
「約得な性格だ」
といえるのではないだろうか。
そんな坂口だったが、別れた女とは、もう会ってもいない。
最初は、
「これですっきりするのではないか?」
と二股に対して、疲れを感じてきたことで、簡単に付き合っている相手を、切るくらいなので、あまり、まわりに気を遣う性格でもなかったのだ。
しかし、それでも、坂口のまわりに、女性が寄ってくる。それも、恋愛目的に寄ってくるのだった。
「俺のどこがいいというのだろう?」
まわりに女が寄ってくるということも分かっていながら、その理由を分かりかねている。それだけ、
「女というものが、よく分からない」
と思っているのも、彼の本性だった。
だから、今回も、不倫相手を、簡単に突き放すことができたので、ある意味、
「円満に別れることができた」
といえるだろう。
相手の女も、
「私も気楽に他の人と恋愛ができる」
といっていた。
普通なら、
「男にフラれた時の、言い訳のように思えるのだろう」
のだが、その女からすれば、
「これくらいのことは、言い訳でもなんでもない」
といえるのだろう。
自分では、
「女をフッたと思っているが、実際には、普通に別れただけだった」
というのが事実だった。
だから、本当であれば、
「うしろめたさ」
など、感じる必要などないのにも関わらず、坂口は、後ろめたさのようなものを感じていた。
「彼女に悪いことをしたな」
と思っていたが、実際には、彼女の方も、同じように、二股をかけていたので、
「お互い様」
ということだった。
そうでなければ、
「付き合っている相手が、結婚する」
と言った時、平気でいられるわけなどないだろう。
ということになるのだ。
もし、それを感じていなかったとすれば、
「この男は、どれだけ、自分に甘いんだ」
ということになる。
まるで、頭の中が、
「お花畑だ」
といってもいいのか、それとも、
「本当に自分のことだけしか考えられない人なのか?」
ということになるだろう。
坂口という男は、その両方を持ち合わせているので。その性格は、どうしようもないところだといってもいいだろう。
坂口が、
「不倫をしていた」
ということを知っているのは、二人だけだった。
というのも、
「坂口が自分の口から、白状した」
ということであって、あくまでも、
「少なくとも二人だけ」
といえるのであって、近くにいる人が、坂口の素振りからそのことを知ったかどうかは、この際関係ないことであった。
坂口が話をした相手というのは、その日に集まった、前述の、大迫という大学生と、もう一人、殿山という、少し年配の男であった。
彼は、年齢的には、
「中年を超えていて、そろそろ、初老と言われるくらいの年齢だ」
と本人は言っていた。
そう、年齢的には40代後半であり、
「俺は、そんな年齢になるまで、結婚もしたことがない」
といって笑っていた。
「もちろん、今までに結婚してみたいと思ったこともあったけど、結婚したいと思う人が現れなかっただけだからね」
といっていたが、それが本心なのか、どうなのか、坂口には分からなかった。
ましてや、大迫くらいのまだ大学生であればなおのこと、分かるはずもなかったといってもいいだろう。
「大学生には、きっと分からないというのは、もちろんだが、それよりも、坂口という男にはもっと分からないだろうな」
と思っていた。
殿山という男、自分では、
「俺は、よくも悪くも普通の人間だ」
と思っていたが、実際には、まわりからは、
「聖人君子のような人」
ということで、それなりに、尊敬のまなざしのような目で見られていたといっても過言ではないだろう。
聖人君子などという言葉は、結構いい言葉だといってもいいだろう、ただ、当の本人である殿山は、その言葉で言われるのは、あまり好きではなかったのだ。
「俺って、この年になるまで、ずっと一人だったからな」
と、この二人のように、
「馴染みの店で時々会って、話をする」
という程度の友達がいたが、それ以上の、親友などといえる相手はいなかったのだ。
だから、殿山は、彼らを、
「友達というよりも、仲間だ」
と思っていたようだ。
「友達と仲間」
という言葉であれば、
「友達の方が、仲が深いように思えるが、実は、仲間という方が深いような気がする」
と思っていた。
というのは、
「仲間という方が、趣味趣向が一致していることでの一緒の行動」
ということになり、
「友達というと、それを含めたところで、広義の意味と解釈でき。ある意味、漠然として見えてくるものだ」
といってもいいだろう。