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記憶の時系列

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 その抑制としての象徴が、
「核の抑止力」
 というものであったのだ。
 それがあることで、
「世界から、戦争はなくなった」
 というセリフが出てくるくらいになった。
 だが、これは、
「恒久平和がもたらされた」
 ということで、
「よかった」
 とは、手放しに言えることではなかった。
 というのが、それが
「核の抑止力」
 というもので、
「核戦争というものが起こり、お互いにミサイルを打ち合えば、それがm戦争当事国だけではなく、地球上で、人が生活ができなくなる」
 ということを、放射能が証明しているということになるのだった。
 確かに、
「核の抑止力」
 というものは、
「正常な状況判断」
 であれば、なんでもないことだ。
 しかし、もし、国家元首に、かつての、ヒトラーや、スターリンのような独裁者がいて、その精神状態によって、
「核のボタンを押しかねない」
 といえるのではないだろうか。
 確かに、国家元首の持っているボタンだけでは、その実行はできないかも知れないが、
「その国家元首というものが、本当の独裁者で、まわりに対しての恐怖政治で、核ボタンを押さなければ、自分が殺されるという究極の選択を迫られると?」
 ということを想像すると、
「核の抑止力」
 というものが、実に薄越辺ライオブラートの下に作られた、
「張りぼての平和」
 であるということが分かるというものだ。
 戦争において、
「戦争であっても、国際法というものがあり、それに伴った戦争でなければならない」
 ということであるが、今までの戦争と国際法の関係は、
「後付けといってもいい、法律」
 というのが、
「戦時国際法」
 というものなのかも知れない。
「かつての戦争を繰り返してはならない」
 ということで国際法がどんどん整備されていくことになるのだが、それはあくまでも、
「一度起こったことを繰り返さない」
 ということに尽きるのであって、
「そう簡単に、次の戦争を予期できるなどということはありえないだろう」
 ということであった。
 それを考えると。
「戦争というものが、この世からなくならないという理由が分かったのではないか」
 といえるのではないだろうか?
 戦争というものが、国際社会において、どういうことになるかと考えると、
「あってはいけないことではあるが、そう簡単になくなるものではない」
 ともいえるだろう、
 それを考えると、
「世界平和の代償」
 という意味で、
「戦争とは、一種の必要悪」
 というものではないだろうか?
 という考え方もあったりする。
 そんな、
「東西冷戦」
 と呼ばれた時代に、巻き起こったのが、
「代理戦争」
 というものであった。
 代理戦争という表現が適切なのかどうかは、なんともいえないところであったが、
「もう、戦争は不可能になった」
 という、
「第二次大戦後」
 に言われた言葉の意味は、あくまでも、
「核の抑止力」
 というものが影響し、
「戦争を行えば、あとは、破滅の道しか残っていない」
 という漠然とした思いからであっ。
 実際に、戦争をすることで、
「核兵器は使えない」
 ということになるので、
「核兵器を使わない戦争」
 ということが考えられるようになった。
 そもそも、それまでの戦争は、
「地域紛争」
 であったり、
「民族問題」
 などから、戦争状態になっていったのだ。
 しかも、そこん、同盟関係というものがあることっで、
「こじんまりとした紛争が、いつの間にか、世界大戦になっていた」
 ということになるので、今度は逆に、世界大戦もならないうようにするには、
「こじんまりとした紛争に対して、不拡大政策を取ればいい」
 ということになるのだ。
 特に。
「核保有国」
 が、なるべく戦闘に参加しないということが大前提となり、
「世界大戦になるのを抑えるには、後ろに、超大国が控えている」
 ということで、けん制し、相手にも、
「もう戦争はできなくなった」
 ということで、超大国の関与を表向きにしないというやり方が、主流になってきた。
 だから、一見。
「相手陣営を代表して戦争を行っている」
 ということで、便宜上の表現であろうが、それを、
「代理戦争」
 という形の言葉で表現されるということであった。
 だから、
「代理戦争」
 という表現がいいのか悪いのか、それが問題ではあるが、結果として。
「陣営を代表として戦争をする」
 ということで、とりあえずの表現としてはいいのではないだろうか?
 それを考えると、
「代表戦争」
 といってもいいくらいかも知れないが、代表というと、
「バックに大将が控えていて。最後に大将戦が控えている」
 ということになり、
 それは表現上もまずいだろう。
 かつての、世界大戦では、
「代表戦」
 というような考え方があった。
 当時の石原莞爾大佐が、提唱していたことで、
「世界最終戦争論」
 と呼ばれる本も出したくらいだった。
 世界大戦では、
「各地域の代表が決まり、地域の代表が、全世界大戦を行い、そして、最後に超大国の二つが残ったところで、その国によって、
「2大超大国の決勝戦により、勝ち残る国が世界の代表として、君臨し、そのあとに、恒久平和がやってくる」
 という考え方であった。
 だから、
「世界大戦の時代は、消耗戦争であり、代表を決める大戦なのだ」
 という考え方だったのだ。
 当時の政治家や軍も、世界大戦になった時点で、似たようなことを思い描いていたであろうが、
「核兵器のような、すべてを破壊するという兵器の登場まで予知していたのかどうか分からないが、結果として、世界において、どのような体制を取ればいいか?」
 ということが、第二次大戦が終わった時点で、想像できたであろうか?
 少なくとも、
「東西冷戦」
 というところまでは想像できただろうが、
「核兵器を生み出したアメリカにも、このような、代理戦争などというものが想像できたのかどうか、難しいところだ」
 と言えるであろう。
 ただ、この、
「代理戦争」
 という考え方が、
「宇宙間戦争」
 において、どのような形になるのか、なかなか想像はつかない。
 ただ、
「宇宙というものを、地球の拡大解釈」
 ということで、
「無重力の空気のない世界」
 ということで、発想は、いくらでもできるだろう。
 そういう意味で、
「SF」
 というものは、
「無限の可能性を秘める時空のような考え方」
 とことができるのではないだろうか?
 と言えるのであった。
 そして、
「宇宙における、代理戦争というのも、地球上の考え方と同じで、宇宙大戦争になるのを、避けている」
 と考えると、
「宇宙にも、いくつかの星を一発で破壊できるくらいの超兵器が存在していて、それぞれの陣営が持っていることで、抑止力が働いている」
 ということになり、その考えが、
「宇宙戦争の基本」
 ということで、ほとんどのSF作家は考えていたことだろう。
「逆の考え方があるのなら。教えてほしい」
 と思えるのだろうが、その思いを一番感じなければいけないのは、政治家や、軍部であろう。
 しかし、悲しいかな、
作品名:記憶の時系列 作家名:森本晃次