記憶の時系列
「シナ事変」
というものが、その発端における、
「通州事件」
というものに代表される、
「日本人に対する、居留民といわれる非戦闘員に対しての、大虐殺」
などが行われていた。
それを知っているだけに、
「捕虜となれば、間違いなく、虐殺される運命が待っている」
ということになるので、そんな思いをするくらいなら、その場で、潔く死を選ぶというのも、ある意味当たり前のことだといえるだろう。
それだけ、
「有事」
というものが、
「簡単にはいかない」
という精神状態をもたらすといってもいいだろう。
それだけ、世界情勢は異常だったということであり、特に、欧米列強は、アジアを植民地化して、
「大いにアジアを搾取していた」
といってもいい。
そんな欧米列強から、アジアを解放し、アジアに対して、日本が中心になって、その後の、
「新秩序」
を作り出すという、
「大東亜共栄圏建設」
という大義名分が、あった戦争で、
「大東亜戦争」
というのは、そういう意味を込めてつけられた、
「閣議決定」
による命名であった。
それを、
「勝者の裁判」
として、戦争犯罪人を裁くうえで、この名前や大義名分は邪魔だった。
ただでさえ、
「勝者のよる裁判」
という、
「公平性を著しく欠いた裁判なのだから、当然神経質になるのも当たり前だ」
そういう意味で、本来であれば、
「通常戦争に対しての罪」
というのと、
「平和に対しての罪」
というものは、普通にあり得るのだが、
「人道に対する罪」
という項目もあった。
これは、ナチスドイツを裁くという意味での、
「ニュルンベルク裁判」
というものを、日本における、
「極東国際軍事裁判」
にも適用させるというものであったが、結局は、
「人道に対する罪」
というもので裁かれる人はいなかったのだ。
もし、それを裁いてしまうと、
「日本の掲げた、大東亜共栄圏」
に抵触することが分かっていたからではないだろうか?
元々は、ドイツの、
「ホロコースト」
などと言った、一定の民族への迫害、虐殺を裁くためのものだったのだ。
日本においても、
「731部隊」
と呼ばれる、
「非人道的」
と言われた部隊の証拠が残っていれば、罪に問うことができるのだが、実際には、
「敗戦時までに、すべての証拠を抹殺した」
ということで、裁くとこはできない。
一説には、
「アメリカが接収した」
という話もあるが、どこまで本当なのか、こちらも証拠がないので、何ともいえない。
ただ実際に、
「731部隊」
にかかわった人が、裁判にかけられたという事実はない。
つまり、
「戦時中の噂」
というとことでしか、語られていないということであった。
それを思うと、
「大日本帝国」
に対しての恨みを持っている国は多いだろうが。それも、当時の世界情勢からすれば、
「仕方のないこと」
であり、敗戦ということになった時点で、その言い訳が利かなくなったということなのであろう。
「やむを得ない部分があった」
とはいえ、
「大日本帝国」
が行った、
「国家総動員法」
というものを可決させ、有無も言わさず、
「国民を戦争に引きずり込んだ」
ということは、
「罪に値する」
といえるだろう。
だが、戦争に突入しなければ、今度は日本が、欧米列強から、植民地化されることになり、
「まるで、開国当時の不平等条約」
いや、それよりももっとひどい状況での、条約を結ばされるということになり、
「時代が、約100年逆戻りし、それまでの努力が、無に帰してしまう」
ということとなり、
「大日本帝国」
ではなくなってしまうということを、黙って見ているというわけにはいくわけはないだろう。
それを考えると、
「大東亜戦争」
というものは、必要不可欠なものだったということになるのであった。
「敗戦はあくまで、結果」
といってもいいのだろうが、どうしても、
「米英を相手に戦うなど、無謀」
と今では言われている。
しかし、明治時代の、
「ロシアに対しての、日露戦争」
に対しては、
「無謀だった」
という人間は誰もいないだろう。
それは、
「敗戦しなかった」
ということが大きなことであり、しかも、北欧の国の、
「対ロシア」
を意識しなければいけない国からすれば、
「勇気を与えられた」
ということで、賞賛に値するものだったのだ。
日本人はそれを誇りに思い、ひょっとすると、
「米英戦でも、勝てるのではないか?」
と思ったことだろう。
しかし、実際には、その考えが甘かったことは分かり切っていることであり、
「日露戦争の時には、日英同盟というものがあり、外交により、強力な味方を得ることができた」
ということであったが、
「大東亜戦争においては、基本的に、日本は孤立してしまったことで、戦争をせざるを得ない状況になったのだから、日本の興亡という意味では、日本に勝ち目はなかったということは、あとから見たことであり、突入しなければ、いけない状況だったというのは、しょうがないことだった」
ということである。
しかし、
「何とか外交で、戦争回避を」
と考えていたのも、
「米英戦を無謀な戦争だ」
ということが分かっていたからであり、本当であれば、
「いずれはやってくるであろう、対米戦に対して、万全の備えをしておく」
ということは考えての、大陸進出だったのだろうが、
「世界情勢がそれを許さなかった」
ということであろうか、それとも、
「日本が、孤立の道を選んだことが間違いだったのか?」
ということになるだろう、
確かに、
「満州事変」
というのは、
「自作自演だった」
ということなのかも知れないが、
「日本の事情」
としては、やむを得ないことであった。
それは、
「ソ連に対して、満州は、日本の生命線」
と呼ばれていたことも、その理由であるが、それよりも、大きかったのが、
「日本における食糧問題」
ということであった
「日本民族の人口が増えすぎた」
ということ、さらに、
「東北地方の不作」
あるいは、昭和恐慌などの、経済不安から、
「農民は、娘を売らないと、食事ができない」
というくらいにまで追い詰められていた。
その問題を解決するために、新しい土地を得ることで、そこに、日本から送り込み、
「日本の人口を少しでも、満州に開拓者として送り込める」
ということであり、り、さらには、
「満州」
という国土に、
「王道楽土」
というものを求めた。
さらに、
「日本人、朝鮮人、漢民族、満州民族、蒙古民族」
という、いわゆる、
「五族」
というものを、
「共存する」
ということで、
「五族共存」
というスローガンもあることで、
「新たな国家の礎になる」
といって、どうせ日本にいても、ただの食いぶちとしての立場でしかない。
「農家の次男、三男」
が満州に移民し、そこで新たな自分の存在を表すという夢をもって、たくさんの人が満州に渡ったのである。
しかし、
「聞くと見る」
とでは多いな差があったようで、