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記憶の時系列

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 それを思うと、
「自由は決して、平等を生まない」
 ということになるであろう。
 奴隷制度において、
「生殺与奪の権利」
 というものが、
「実際に存在する」
 ということであった。
 宗教的に考えると、民主国家において、
「生殺与奪の権利」
 というものが、誰かに与えられているとすれば、
「裁判というものにおいて、死刑判決を下す」
 ということであろうか?
 ただ、それはあくまでも、
「平時においていえることであり、有事という、戦時体制においては、その限りではない」
 といえるだろう。
 戦争状態にあれば、当然のごとく、
「自分の身が危ない」
 と思えば、
「相手が銃を構えていれば、相手が発射する前に、こっちが発射する」
 というのは、当たり前のことであり、一種の、
「正当防衛」
 といえるだろう。
 平時において、人を殺めたとしても、それが法的には罪にならない」
 ということもある。
 いわゆる、
「違法性の阻却の事由」
 と言われるものであるが、前述の
「正当防衛」
 であったり、
「緊急避難」
 などが、それである。
「緊急避難」
 というのは、例えば、
「巨大な客船が、座礁、あるいは、難破したりした場合に、船が沈む時に、、救命ボートに乗って助かった人がいるとして、その時、定員がちょうどの場合、海に投げ出された人が、助けを求めてボートに泳ぎ着いた場合、相手を助けると、自分たちもろとも、すべての人間が死ぬことになる」
 という場合に、一人が、その助かろうとしてきた人間、あるいは、誰か一人を海に投げ出して、死なせた場合。
「その人を助けると、自分たちたくさんの人が、もろとも死ぬことになるという場合、やむを得ず、一人を犠牲にした場合、その時には、殺人罪は成立しない」
 ということである。
 しかし、だからといって、助かるためには、それなりの要件も必要であろう。
 死んでほしいという人間を、自分で勝手に選んで、
「その人めがけて、あたかも、偶然その人に白羽の矢が立って、殺されなければならなかったのか?」
 ということになるのだとすれば、
「違法性阻却の事由」
 というものを証明するという意味で、
「一定の要件を満たさなければいけない」
 というだけの、条件は、かなりなければいけないということになるだろう。
 これは、状況は違うが、
「生殺与奪の権利」
 という意味で、考えられることとして、
「安楽死」
「尊厳死」
 という問題に絡んでくることになるであろう。
 こちらも、日本では認められてはいないが、外国によっては認められているところもあり、
「そのための要件も、かなり厳しいものだ」
 といってもいいだろう。

                 生殺与奪の「権利」

 今年で50歳になる横川は、そろそろ老人と呼ばれるくらいの年齢に入ってきて、今まで、一度結婚したのだが、うまくいかずに、離婚した。
 当時は、35歳くらいで、
「バツイチくらいは、別に何ともない、却って拍がつく」
 というくらいで、
「新婚旅行から帰ってきて、いきなり離婚する夫婦」
 のことを、当時では、
「成田離婚」
 と呼んでいたが、実際に、成田離婚をした人も知り合いには多いようだった。
 だが、さすがにそこまでのスピード離婚ではなかったが、離婚するまで、3年であったのに対し、交際期間が、5年くらいだったということで、口の悪い連中からは、
「長すぎた春だ」
 と言われたが、自分でも納得で、
「うまいことをいう」
 と言われたほどだった。
「子供がいなかったのは、幸いだったかも知れない」
 ただ、最初の一年間は、付き合っていた頃と変わらないほどの仲睦まじさであったが、「子供がいれば、離婚することもなかったのではないか?」
 と思うと、
「子供、作っておけばよかったかな?」
 とも感じたが、最終的には、
「子供を盾に結婚する」
 という連中が、ほとんど離婚していることを思えば、
「それも無理もないことか」
 と思うのであった。
 だが、さすがに、
「できちゃった婚」
 と言われるものでなかっただけでもよかったということになるだろう。
「作っておけばよかった」
 というのも、たいがいであるが、それ以上に、この、
「できちゃった婚」
 というのはたちが悪い。
「結婚するために、子供を作った」
 というわけではなく。
「できちゃったから、しょうがないので結婚する」
 ということで、
「どっちが悪いのか?」
 ということになると、それこそ、
「五十歩百歩」
 とでもいえばいいのか、
「最底辺のところで、罵りあっている」
 というだけの、情けなさでしかないというわけだ。
 どちらにしても、
「子供を利用している」
 ということに変わりはない。
 できちゃった婚などは、
「責任を取る」
 ということを言っているくせに、その根拠も計画性も何もない状態で言っているのだ。あてになるわけもない。
 そもそも、計画性のある男であれば、女性を妊娠させるようなことをするわけがない。
 その時の行き当たりばったりということでしか結果というものを見ることのできない男に、
「何ができるというのか?」
 ということである。
「その男にとっての、責任というのが何なのか?」
 相手の親から、ぶん殴られても、まだ足りないことであろう。

 もし、ぶん殴られても、
「何が起こったんだ」
 としか思わない、そんなバカな男でしかないのだろう。
「人間は生まれながらに平等だ」
 ということは、そう考えると、
「詭弁でしかない」
 ということだ。
 それこそ、
「底辺の苦しみを知らない人が、あたかも、底辺がかわいそうだ」
 ということで、ただ、同情しているだけではないか?
 そもそも、あの言葉を言ったのは、福沢諭吉ではないか、
 福沢諭吉というのが、
「聖人君子で、お釈迦様のような人間で、人類すべての人を救うことができる人なのだとすれば、いいのである」
 が、口ではそういっているが、
「戦争を擁護したり」
 革命家である、
「孫文に援助したり」
 ということで、革命を支援するということは、一種の内政干渉でもあるし、内乱で被害を受けるのは、非戦闘員ではないか?
 それを考えると、
「本当に、人の上に人を作らずなどという言葉の真意が、どこにあるのか?」
 ということを考えさせられるのであった。
 ただ、彼が著したこの本というのは、その名前を、
「学問ノススメ」
 というではないか。
 これは、人間生活全般のことを言っているわけではなく、あくまでも、
「学問上」
 のことを言っているのだろう。
 福沢諭吉だって、
「人間が生まれながらに平等なわけはない」
 ということくらいは分かっているだろう。
 ただ、一つ、学問を勉強して、高みを目指すことはできる。そういう意味で、
「勉強をするのに、平等を解いた」
 ということではないだろうか?
 あの時代は、まだまだ学校に行ける人の数も限られていた。
 まだまだ、身分制度の名残が残っている時代だった。諭吉が同じ目線で見ている人たちは、一部の人間であることは当たり前のことである。
 だから、まさかとは思うが、真剣に、
作品名:記憶の時系列 作家名:森本晃次