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記憶の時系列

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「松平定信」
 などの時代においても、経済は一行によくならず、江戸幕府は、常に、
「火の車」
 ということで、諸大名に対しての権威に陰りが差してきた」
 といってもいいだろう。
「棄捐令」
 などが出されたことで、幕府の台所がどれほどひどいのかということは、商人あたりには、大体のことは分かっていたことだろう。
「ペリー来航」
 による、開国以前から、
「幕府に対して、見限っていた」
 という大名も少なくはないだろう。
 失敗はしたが、
「大塩平八郎の乱」
 というのも、その表れの一つだったといえるのではないだろうか?
 江戸時代には、
「士農工商」
 と言われる身分制度があった。
 これは、ある意味、
「うまく作られている」
 といってもいいだろう。
 というのは、
「身分的には、上部にいても、実際の力とは、必ずしも一致した階級」
 というわけではないのだった。
 例えば、
「商人は、士農工商では、身分的には一番下だが、一番上の農民に比べれば、明らかに力は強い」
 ということであった。
 何しろ、商人は、
「武士に金を貸し付けることで、利益を得ることができるのであって、商売によっても、金を得ることができる」
 しかし、農民はというと、幕府とすれば、
「生かさず殺さず」
 ということになり、
 つまりは、
「農民が、利益を得るなどありえない」
 ということであった。
 しかも、取れた穀物を、
「生きていくために必要な最低限のものだけを与えられるだけで、あとはすべて年貢でとられる」
 ということになるのだ。
 それを、
「飢饉などがあった時も同じ状態なので、真っ先に餓死するのは、農民だ」
 というわけである。
 それを考えると、
「農民というのは、まるで、奴隷ではないか」
 ということであるが、身分とすれば、
「武士の次」
 ということになるので、幕府はそれで、プライドを考えたのかも知れないが、
「奴隷扱い」
 というものをするのだから、最初から、
「プライドも何もない」
 といってもいいのかも知れない。
 もし、そのプライドというものを、
「人間だから」
 ということで、農民に求めたのだとすれば、
「あまりにも、人間を甘く見ている」
 ということになるのではないだろうか?
 ハッキリとは言わないが、プライドも何もないくらいに、感覚がマヒしてしまった人間を、
「奴隷」
 といってもいいのではないだろうか?
 だから、
「農民が果たして奴隷といえるのだろうか?」
 と考えると、微妙であった。
 今の民主化の時代からであれば、
「プライドが大切」
 ということになるだろう。
 しかし、当時の支配階級が確立された時代において、奴隷となってしまうと、その感情というものがマヒしてしまっていると考えると、
「江戸幕府における農民は、奴隷だった」
 といってもいいかも知れない。
 ただ、そこに、キリスト教と結びつくことで、
「島原の乱」
 というのが起こったのだとすれば、
 古代文明における。
「モーゼ」
 であったり、
 アメリカ合衆国における、
「リンカーン」
 に、なり切れなかったのが、
「天草四郎だった」
 ということであろう。
 実際に、
「踏み絵」
 を実施したりして、キリスト教を弾圧したことに関しては、賛否両論あるだろうが、
「いい悪い」
 ということを別にすると考えると、
「農民が奴隷であったのかということであれば、やはり、奴隷だった」
 と見るのが、当たり前のことだったに違いない。
 明治維新において、一応の、
「身分制度撤廃」
 ということは行われたが、民主化ほどの平等ということはなかった。
 確かに、撤廃された身分制度ではあったが、
「いきなり、翌日から、一気に変えてしまうことなどできるはずがない」
 今の時代でも、ちょっと新しい法律ができる」
 というだけで、その猶予期間として、半年くらいは、
「新旧混同したかのような状態」
 が世の中に存在する、
 ということは普通にあるだろう。
 身分制度というものが、どれだけ、大きなものであったのかということは、明治政府によって、中間的な位置にしたまま、放置してしまったことで、
「大日本帝国解体」
 と言われる敗戦を迎えるまで、
「華族」
 などという制度が残っていたのであった。
 もちろん、必要なものだったのであろうが、
「身分制度の撤廃」
「自由民権」
 という観点からは、完全に、立ち遅れていたといってもいいだろう。
 だから、日本において、
「徳川時代の負の遺産を引きずらないようにしよう」
 と考えたとしても、実際には、そううまくいくわけではない、
 それが、ある意味、
「大日本帝国」
 という時代の、中途半端なところで、
「限界だった」
 ということになるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「国家体制」
 というのは、必ずひずみがあり、
「諸外国をそのままマネのできるものではない」
 といえることの証明ではないだろうか?
 奴隷制度というと、とにかく、今の時代では、
「まずありえない」
 ということで認識されているので、
「奴隷制度というと、過去の負の遺産」
 という意識が強い。
 確かに、今の時代からすれば、
「自由、平等」
 という両方を虐げているということから、
「許されない」
 といえるだろう。
 しかし、これは逆を考えると、
「自由と平等の両方を手に入れることが不可能だ」
 という、一種の、
「民主主義の限界」
 というものを考えると、
「この二つを満たすことは、土台無理なんだ」
 ということになるであろう。
 何といっても、
「人間は生まれながらに平等だ」
 とよく言われるが、果たしてそうなのだろうか?
 というのは、
「元々、平等ではない世界の、どの親から生まれるか、決まっていないのだから、そうであろう」
 もちろん、誰だって、
「金持ちな家に生まれたい」
 という願望は持っているはずだ。
 しかし、金持ちにだけ生まれたいと本当に思うのだろうか?
「金持ちであるがゆえに、その将来は勝手に決められている」
 といってもいい。
 親の後を継ぐことで、金持ちのまま引き継げたとしても、それを維持させるには、かなりの努力が必要である。
 それを教えてもらうのが、
「帝王学」
 というものであり、英才教育を受けるということになるのだ。
 だから、
「金持ちであるがゆえに、職業の自由はなく、自分が後を継がないと、会社の命運が尽きる」
 ということであれば。社員が路頭に迷うということで、
「本当に金持ちの家に生まれるというのが幸せなのか?」
 ということになる。
 そもそも、
「自由を求めると、平等ではなくなる」
 という考え方は、
「民主主義の限界」
 と言われる、
 自由競争によって、生まれるものは、
「貧富の差」
 であり、それは、副産物というよりも、
「貧富の差」
 が生まれることで、
「自分は勝ち組になるのだ」
 という、成果主義の世の中が、民主主義だということになれば、
「学歴社会」
 であったり、
「受験戦争」
 というものが、生まれるのは、当然の結果だといってもいいのではないだろうか?
作品名:記憶の時系列 作家名:森本晃次