いたちごっこのフレーム問題
というものと、さらに、
「サイボーグ」
と呼ばれる、
「元々が人間だが、その頭脳を、ロボットの身体に移植したというような、形のいわゆる、超人類」
というものもある。
それぞれに、基本的には、
「人間が作った人工知能であったり、移植した人間の脳が、働くことで、自分の意志を持って行動する」
というものだった。
サイボーグの場合は、実際に、倫理的な問題も大きい。
というのは、
「死んだ人間の脳を、そのままサイボーグに移植し、その人間を、ロボットとして生かし続ける」
というものだが、宗教的な意味ということなのか、それが、果たして許されることなのか?
という、問題になるのだ。
ただ、それを最初から論議をすれば、話が進まないので、そこは、ある程度スルーすることが多かっただろう。
ただ、
「なぜ、サイボーグを作ったのか?」
というところでの、悪の組織の暗躍が問題だったりする。
作品の中には、
「人間の欲」
というものが、あからさまに出ていて、その内容として、
「金儲けのために、死の商人と呼ばれる兵器開発の組織が、戦争で儲けるために、サイボーグを送り込み、どこかの国で戦争を起こさせる」
という暗躍のためであった。
つまりは、
「金儲けのために、人間が卸しあう戦争と起こさせる」
という、これほどの理不尽さはないというストーリーから、
「悪の組織」」
で、サイボーグ開発を行っていた博士が、自分の作ったサイボーグを使って、悪に立ち向かうというストーリーのものもあった。
ただ、こちらと似た話が、
「アンドロイド」
の方でもあった。
とにかく、
「悪の組織」
としては、まず目的が、
「金儲け」
であった。
金儲けをして、そこから世界征服のための下準備をするというのが、その根底にあるということもあるが、
「とにかく、理不尽以外の何物でもない」
ということになるのだった。
そんな悪の組織というものを、いかにやっつけるかというのが、
「人型ロボット」
の役目であった。
「正義の組織が、ロボットを使う」
というよりも、
「アンドロイドやサイボーグ」
が自分の意志で、人間のために、戦うという話になっていることが多いのだ。
だから、問題になるのは、
「アンドロイド」
であった、
「サイボーグは、脳は元々人間なので、そうでもないが、アンドロイドは、人間が作った人工知能というものが、問題となるのだ」
ということであった。
人工知能は、その力をいかに発揮するか?
ということで、実際に問題となるのが、
いわゆる、
「フランケンシュタイン症候群」
と呼ばれるもので、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまったフランケンシュタインが、人間を攻撃する怪物が増えるのを懸念した」
という発想から出てきたもので、
ロボット開発における、
「ロボット工学三原則」
というものに抵触しないか?
ということがテーマとなる。
つまり、
「人間を傷つけてはいけない」
「人間の命令を聞かなければならない」
「ロボットは自分の身は自分で守らなければいけない」
という三原則を、
「矛盾なく行わなければいけない」
ということで、その三原則には、
「犯してはならない、優先順位が存在するのだ」
それでも、矛盾というのは、どうしても起こるというもので、それが、
「ロボットもの」
というマンガであったり、特撮のストーリーになるというもので、そもそも、この、
「ロボット工学三原則」
というものが、
「SF小説家による提唱」
ということで、
「自分の小説でのネタ」
として書かれたものであり、その完成度は、かなりのものであり、今でも、
「ロボット研究のバイブル」
ということで、大学や各企業のロボット開発に、深いかかわりを持つことになるのであった。
そんな時代の十数年後に、日本での、
「ロボットもの」
というものが考えられた時、
「アンドロイドにおいては、特に、この三原則が大きな影響を持つ」
ということになるのだった。
ただ、サイボーグにおいても、その悲哀は大きかったりする。
何しろ、
「人間というものの、存在、さらには尊厳というものが、影響しているからである」
といってもいいだろう。
どちらにしても、
「その発想は果てしないものがあり、無限の可能性を、ロボットが認知できない」
という皮肉な結果になっているということを、その頃の作者と呼ばれる人たちが分かっていたというのも、画期的なことだといえるだろう。
自由と平等
「人型ロボット」
というのが、
「アンドロイドや、サイボーグ」
といった、
「人工知能」
などによって、制御されるものと違って、
「巨大ロボットもの」
というと、考え方としては、
「地球エネルギー」
や、
「宇宙から降り注ぐエネルギー」
というものを使ってのエネルギーで動くロボットが、
「人間の役に立つ」
ということから、開発されたもの。
という発想がある、
だから、
「巨大ロボット」
というと、
「まるで、工事現場での、ショベルカーのような、重機を感じさせるもの」
と発想が似ているような気がする。
最初は、
「実写が多かったが、そのうちに、アニメの技術が進んだからなのか、アニメによる、ロボットものが増えてきた」
そうなると、
「実写では、表現できにくいものを、アニメであれば、表現できるということで、ロボットアニメの時代に入ってきた」
というのも、代表的なものとして、
「合体もの」
というのが増えてきた。
「それぞれの機能を持った戦闘機であったり、戦車のようなメカが、合体することで、一つの巨大ロボットに変身する」
というものである。
巨大ロボットでなくとも、
「合体することで、一つの大きな戦闘機になる」
というパターンもあり、一時期、
「合体もの」
というブームがあったりした。
しかも、その合体ものとして、面白いのが、
「正義のヒーローに変身する」
という設定の中で、
「二人が合体して、一人のヒーローに変身する」
というものも流行ったのだ。
それが、
「巨大ヒーロー」
という場合もあるし、
「人型の等身大ヒーロー」
というものの両方もあった。
しかも、人間の合体で、ヒーローになる場合は、最初は、実写が多かった。
つまり、
「アニメが増えてくる前から、合体という発想はあった」
ということである。
子供心に、
「二人の人間が、一人のヒーローに変身することで、喧嘩のようなことにはならないのか?」
と思ったが、等身大ヒーローの方の元々の発想が、
「友情」
というものからきているもので。
「お互いに、喧嘩になったり、意見が合わなかったりすると、変身が解けてしまう」
という発想であった。
だから、正義のヒーローになって、悪をやっつけたり、目の前で苦しんでいる人を助けるには、
「喧嘩なんかしていられない」
ということで、
「友情の大切さ」
というものを、皆に植え付けようという発想だったのだろう。
そんな友情をテーマにすることで、
作品名:いたちごっこのフレーム問題 作家名:森本晃次