いたちごっこのフレーム問題
「大切なのは、友情と助け合い」
ということになると、敵の方には、そんな概念がないことで、相手が仲間割れを起こしたりして、自滅するということも、たまにあったりした。
もっとも、テーマが、結局は、
「勧善懲悪」
ということになるのだから、最後には華々しく、敵をせん滅するということを求められるので、
「必殺技を繰り出すことでやっつける」
という結末になるのだった。
しかし、この発想がいいのだろうか?
民主主義の世の中なので、
「自由、平等、博愛」
ということのはずなので、
「博愛」
ということを考えると、
「相手を完膚なきまでにやっつける」
というのが、果たして教えとしていいことなのだろうか?
ということである。
昔の大日本帝国の時代であれば、戦時などで、時代劇による、
「勧善懲悪」
であったり、
「当時の戦闘機のドッグファイトにより、相手を撃墜する」
というのが、
「正義」
だったりするのだ。
もっとも、戦闘機のドッグファイトというのは、お互いにズルをするわけではなく、
「正々堂々」
と渡り合っているわけなので、ある意味、スポーツのようなものである。
時代が、そうさせたという背景があるにしても、勧善懲悪というよりも、お互いに、国を憂いて、国防という意味で戦っているのだから、一種の、
「スポーツマンシップ」
といってもいいのではないだろうか?
そういう意味では、
「戦時高揚の意味」
と、
「いずれは、戦闘機乗りを志す」
という、
「人材育成」
という意味を込めた、一種の、
「プロパガンダ」
としては、悪くはないことだと思う。
「時代が、そうだった」
ということなので、
「人を殺戮するという目的のものは、すべてが、ダメだ」
ということになると、話はおかしな方向になるだろう。
だとすれば、
「警察官が、拳銃や手錠などを携帯している」
というのも、違反ということになるのではないか?
確かに今は、拳銃を日ごろから携帯することはしていないだろうが、実際に使用命令が出ることだってあるだろう。
つまりは、
「この世から、悪というものがなくならない限り、警察の存在は永遠であり、暴力が蔓延こる要素はなくならない」
ということになる。
何といっても、
「自衛のための、武器の所持は、世界に出れば、法律で認められているというところはたくさんある」
ということである。
問題は、それをキチンを分かっていない場合のことだ。
以前、日本人が留学ということで、アメリカのどこかの州に滞在している時、ちょうど、ハロウィンという行事があった」
日本では、まだまだ普及されていない時期だったということもあって、アメリカに留学したその青年が、隣の家に、仮装して侵入したという。
その時、
「とまれ」
という英語を分からずに、動いてしまったがために、
「銃で撃たれて死んだ」
という事件があった。
そこで、今までにもあったかも知れないが、
「銃社会」
というものが問題になったりもした。
確かに死んでしまった人はかわいそうだとも思うが、
「そもそも、考え方が甘かった」
といえるのではないだろうか?
というのも、
「アメリカという国は、州によって、銃の所持が認められている」
というのが大前提で、その州は認められていたということである。
そして、
「ハロウィンというお祭りであっても、勝手な住居不法侵入には変わりがない」
という、
「どこの土地であっても、共通ともいうべき、基本的な法律を失念していた」
ということ。
そして、
「そもそも、言葉もハッキリ分からなかったり、その国の風俗習慣というものを、勉強していなかった」
ということで、
「殺されても仕方がない」
といえるだろう。
それを思うと、
「射殺することになってしまった方が気の毒だ」
という気がしてならないのだった。
今の時代は、どこの国にでも簡単に行けるようになって、留学というのも多くなっている。
特に日本などでは、
「インバウンド」
とかいうバカな制度で、
「外人が人件費が安いのと、金をどんどん使ってくれるから」
というだけの理由で、どんどん受け入れているが、それが、数年前に流行って、いまだに収束していない、
「世界的なパンデミック」
というものを拡大させた原因になっているということを、いまだに政府は分かっていないのである。
しかも、外人どもは、日本のことを分かってきているのかどうか分からないような、とんでもない暴挙をする連中だっている。それこそ、大迷惑なのに、政府は、そんな外人どもを雇うと補助金を出す。
なとという、
「日本人が払っている税金を何だと思っているのか」
と文句の一つも出てくるというものだ。
だから、
「あまり、外人がやってくるというのは、歓迎する気持ちにはなれない」
と思っている人が、一定数以上はいるということであろう。
脱線してしまったが、要するに、大日本帝国という、
「立憲君主の国」
が、敗戦によって、民主主義国家に生まれ変わったということであるが、だからといって、
「昔のやり方が間違っていた」
という発想は、一足飛びで危険なことであろう。
確かに、民主化を急ぎ、武装解除や、平和国家として、統治をおこなうということが急務だったので、
「強引な民主化」
もあっただろう。
何といっても敗戦国なのだから、その混乱は致し方のないことで、復興までの十数年は、
「住む家もない」
あるいは、
「明日の食べ物がない」
という状態で、
「栄養失調で、毎日のように、人がばたばたと死んでいく」
ということになったのだが、それでも、
「毎日のように、爆弾が、雨あられと降ってきて、空襲が終われば、そこには、廃墟と死体の山があった」
という地獄絵図よりはましだったと、本当に言えるのだろうか?
「どちらにしても、地獄絵図には変わりはない」
そんな復興から、独立まで、そして、
「もはや戦後ではない」
といわれるまでの日本が、どれほどのものだったのかというのは、想像できるものではないだろう。
何といっても、
「戦争というものを、放棄したと言われる憲法の下、今のところ、自衛隊の存在が微妙というところでの憲法改正議論が以前からあるが、この問題は、そう簡単にできるものではない」
というのも、
「憲法というものは、国民を縛るものではなく、国民を縛るための私法と呼ばれる、民法や刑法を作るという国会議員を戒めるというためのものである」
ということだ。
国会議員が、
「憲法改正」
ということを叫んでいるが、本当にその叫んでいる人が、今の理屈を分かっているのかどうか怪しいものだ。
何しろ、
「議員報酬」
というものをもらいながら、
「国会で寝ている」
というやつがいるだけではなく、
「一度も国会に出てこない」
という、それこそ、有権者の意思を踏みにじるようなやつがいるというのが実情である。
「国会議員を、先生などといって、おだて倒す連中がいあるが、やつらは、いくらもらっているのかね」
と思えて仕方がない人もたくさんいることだろう。
作品名:いたちごっこのフレーム問題 作家名:森本晃次