いたちごっこのフレーム問題
「混乱の時代を極める始まりだった」
といってもいいだろう。
それでも、日本という国は、6年半近くにわたり、占領軍を受け入れる形で、最終的には、委任統治の時代を抜けて、新憲法も発布され、独立を果たした。
とは言っても、まわりの影響も大きかった。
「社会主義勢力の台頭」
により、
お隣の朝鮮で、南北に分かれての戦争が勃発した。
「代理戦争」
と呼ばれるものの、最初の戦争で、そのおかげもあってか、日本は、復興を果たすことができたのだ。
「戦争特需」
というものだったのだが、それが、日本においての、
「奇跡」
と呼ばれた、運の良さだったのかも知れない。
戦後、十数年で、
「もはや戦後ではない」
と呼ばれ、それから、
「東京オリンピック」
「大阪万博」
などというものが、日本の復興からの成長の象徴ということで言われるようになると、日本は次第に、
「経済大国」
ということになっていったのだった。
ただ、それも長くは続かず、昭和の終わりに、
「バブル経済」
というものを最後に、
「バブルの崩壊」
とともに、
「失われた30年」
と言われた、
「暗黒の時代」
を迎えるようになったのだ。
経済成長はほどんどなく、政治家が、ろくな政策を取れないばかりか、民営化などという、
「国家にだけ都合のいい政策ばかり」
ということで、国民のほとんどは、苦しむことになったのだった。
確かに、
「時代は、繰り返す」
などというが、
「ここまで政府の政策がひどいとどうなるか?」
ということを、思い知らされたのだった。
それが、
「民主主義を掲げる日本国」
というもので、
「大日本帝国」
と単純な比較はできないが、政治家などが、どれほど、国を憂いていたのかということを考える、
「大日本帝国の時代の方がよかった」
と考える人が出てくるのも仕方のないことではないだろうか。
そんな日本国というものが、歩んでいた時代。
自分たちの親や、さらにその親が頑張ってきた時代を批判することはできないと思うが、政治家によって、潰されたものもある。
そもそも、
「国に積み立てておいて、老後の生活の足しにする」
ということで、ずっと納めてきた年金というものを、政府の役人が、
「消した」
ということがあった。
キチンとルール通りにやっていれば問題ないものを、
「ずさんな管理」
で、国民の大切な年金を消した。
もっといえば、
「誰がいくらもらうかということが、政府にも分からなくなった」
というものであった。
これは、完全な人災であり、本来の会社であれば、倒産してから、賠償問題になるものが、社会問題にはなったが、ほとんど首を切られることはなかったというのは、本来であれば、厳しいはずの公務員としては、醜態であった。
それこそ、
「外に厳しく、内に甘い」
と言われるゆえんだということであろう。
日本という国が、そんなひどい状態になったのは、
「昔からのずさんな管理だった」
ということであるのだろうが、
日本という国は、昔から、
「隠蔽体質」
というのがあるので、本当であれば、大げさになる前に手を打っていれば、何とかなったといえるかも知れない。
実際に、
「大日本帝国」
の間では、その隠蔽体質が蔓延していて、そのため、諜報部隊であったりや、特高警察などが幅を利かせ、
「下手をすれば、軍の幹部にまで、諜報による、盗聴であったり、電話の傍受などが行われている」
という時代だった。
そこまでしないと、
「治安維持」
というものができない時代でもあった、
特に、
「共産主義」
というものが、
「スパイ」
をたくさん送り込んできているということもあり、特に、
「国家にとっての、最高機密」
といっていい情報は、必死に守ろうとしていた。
しかし実際には、そのほとんどが漏れてしまっていて、国家にとっての機密事項というものが、
「完全に筒抜け」
となっていることも多かっただろう。
特に、
「大東亜戦争」
の頃には、日本の暗号はほとんど、アメリカに傍受され、さらに解読されることで、まったく、作戦が機能しなくなったのだ。
それまでに、いくら、
「連戦連勝」
ということで破竹の勢いだったといっても、情報が丸裸にされてしまうと、
「戦争遂行自体」
というものが、まともにできなくなってしまうということを、日本は分かっていなかったのだ。
だから、もし、当初の計画通り、
「半年くらいで、和平を持ち掛ける」
ということをしていたとして、うまくいっただろうか?
元々の、
「相手の戦意を喪失させ、反戦気分んいさせたところで、和平に持ち込む」
ということだったのだろうが、そもそもの、
「相手の戦意の喪失」
というものは、
「真珠湾攻撃においての、だまし討ち」
ということから、アメリカは、
「戦意を喪失しているどころか、反日感情というものが、湧き上がり、日本が和平を持ち込んでも、後ろ足で蹴られる」
ということになるのが、オチというものであろう。
米軍としても、
「これから、反撃が始まる」
というのに、
「誰が和平などというものを結ぶものか」
ということになったであろう。
ひょっとすると、アメリカは、
「日本の和平交渉を待っていたのかも知れない」
とも言えないか、
和平交渉を言ってきた時点で、攻撃に入り、逆に相手の戦意をそぐことができるといってもいいだろう、
相手にとって、
「これしかない」
という作戦だったものが、ダメになり、今はまだ、連勝街道を突き進んでいるので分かっていないが、いずれこれが、
「地獄への一丁目だった」
ということに気づくことになるだろう。
アメリカは、それを待っていたのかも知れない。
結局、すべての無線が傍受され、丸裸での戦は、
「まるで、外濠と、内濠を埋められて、裸城で戦わなければいけなくなった、豊臣方が籠る、大阪城における、大阪の陣と同じではないか?」
ということになるのだ。
つまり、
「戦というのは、丸裸になった時点で、終わりなのだ」
ということであった。
それを考えると、大日本帝国が、泥沼に入り込み、
「いずれは降伏してくるだろう」
と考えたアメリカ側だったが、どんなに不利になっても、降伏しない。
それどころか、
「虜囚の辱めを受けず」
という形の、
「戦陣訓」
というものによって、
「戦闘員、さらには、非戦闘員すべてに至るまで、決死の作戦として、最後の手段である、玉砕という手段に訴える」
のであった。
「下手に、情けを掛けて、追い詰められた日本の民間人に近づこうものなら、相手は、手りゅう弾を爆発させて、こっちまで命が危ない」
ということになる。
そう、当時の日本人は、
「死を恐れずに戦う」
ということであった。
それは、軍人であれば当たり前のこと、
軍人というものが、死を恐れないというのは、
「敵前逃亡銃殺刑」
ということからも分かるというもので、
「戦争においては、逃げることは許されない」
というのは、何も日本だけに限ったことではない。
作品名:いたちごっこのフレーム問題 作家名:森本晃次