いたちごっこのフレーム問題
をしたことで、
「戦争が終わる」
というだけではなく、その後の占領下における、混乱などが、問題だったりしたのだ。
そもそもが、無差別爆撃などによって、国土のほとんどは、焦土と化していた。
廃墟の中からの占領政策ということであったが、まずは、
「武装解除」
が一番だった。
そして、いくつかの政策がとられたのだが、
特に、農地改革であったり、財閥の解体などの具体的な対策が行われ、それを総称して、それまでの大日本帝国としての、
「立憲君主」
という体制から、
「民主主義体制」
への変換が必要だった。
特に問題となるのが、
「新憲法の作成」
だったであろう。
何といっても、憲法というのは、
「国民を取り締まるものではなく、国民を統治するための法律を作ったり、その法を守る政治家などを取り締まる」
というものだからである。
大日本帝国では、軍部が、戦争遂行のために、どうしても、その強権によって、国民の権利を奪うということを行っていたが、それは、民主国家ではありえないことだ。
だから、新憲法を作ることによって、原則として、
「国民主権」
「基本的人権の尊重」
そして、何よりも、
「恒久平和」
ということが原則となった憲法の制定であった。
占領された日本であったが、占領政策としては、それほど厳しいものではなかった。
そもそも、第二次世界大戦に突入した理由はいくつかあるが、その中で一番大きな問題だったのは、
「第一次大戦において、敗戦国であったドイツに対して、無理難題を押し付ける形となった、ベルサイユ体制の崩壊」
というものであった。
ベルサイユ体制というものは、
「敗戦国であるドイツに対して、多額の賠償金を課し、それによって引き起こされたハイパーインフレであったり、絶対に返済できるわけもない賠償金に苦しめられる中、ほとんどの植民地も失う」
というような、それこそ、
「集団リンチ」
ということで、列強は、
「これで、戦争を起こすことなどできないだろう」
という甘い考えをもっていたのだろうが、ドイツ国民の中で芽生えたのは、
「独裁政権であっても、強い政府によって、国家が導かれ、今の不幸から助けてくれる救世主を持ち望む」
ということであった。
それが、アドルフヒトラーであり、彼が、当時のドイツの象徴として、再軍備を始めたことで、経済復興にもつながり、ドイツ国民に、
「他の国にはない、自分たちの屈強な精神力と団結力で立ち直った」
という気概から、ナチスを熱狂的に支持した背景があったのだ。
そういう意味では、
「ナチスを生み出したのは、ベルサイユ体制」
というものであり、
「他国の考えが甘かった」
ということになるのだろう。
だから、日本などの、敗戦国の統治においても、かなりの神経が使われたことであろう。
何といっても、一番の懸念は、
「第三次世界大戦」
というものを起こしてはいけないということであった。
そのためには、
「日本の武装解除とm軍の解体」
というのが、一番だった。
そして、もう一つは、日本人の心のよりどころといってもいい、
「天皇制」
という問題だった。
実はこれが一番の問題で、
「天皇制を存続させるか?」
あるいは、
「戦争の罪を天皇にも負わせて、一気呵成に、天皇制を廃止に導くか?」
というのが大きな問題だった。
これは、マッカーサーの考えもあったのだが、
「天皇制をいきなりなくすと、占領統治にも支障をきたす」
ということもあって、
「天皇制を生かし、ただ、戦争犯罪人というのは、厳罰に処す」
ということから、
「極東国際軍事裁判」
いわゆる、
「東京裁判」
というのが行われたのだ。
この裁判において、元になったのは、
「ドイツを裁く」
ということで行われた、
「ニュルンベルク裁判」
に則った、
「ABC級犯罪者」
というものの処罰だった。
この、
「ABC」
というのは、何も、
「罪のランク付け」
ということではない。
「平和に対する罪」
「人道に対する罪」
「通常の戦争犯罪」
という種類を、便宜上、
「A級戦犯」
などという言葉で表現したのだ。
しかし、
「人道に対する罪」
というのは、ドイツではあったが、日本ではなかった。
それは、やはり、人種撲滅を行ったドイツにおける
「ホロコースト」
を裁くためのことだったのだろう、
だとすれば、
「731はどうなるのか?」
ということであるが、証拠がないので、そこは、裁かれることはなかったのだ。
そんな
「東京裁判」
においては、7人の処刑者が出たということであり、しかも、その処刑の日というのが、
「昭和23年12月23日」
だったというのは、皮肉というか、占領軍による作為的なものだった。
今の上皇である当時の皇太子の誕生日だったのだ。
「いずれ天皇となる皇太子が、自分の誕生日が来るたびに、戦争犯罪人が処刑された日だということを思い出し、戦争を起こさない国にという決意を新たにする」
ということが狙いだったという。
日本国において、
「終戦記念日」
というのが、
「8月15日」
ということになっているが、これが果たして正しいのだろうか?
しかも、名目が、
「終戦記念日」
である、本来であれば、
「敗戦日」
という命名のはずではないだろうか?
それに、この、
「8月15日」
という日にちも、これはあくまでも、天皇が国民に対して、
「ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏を行った」
ということでの日であって、確かに、日本人向けであれば、問題ないのかも知れないが、世界史的に言えば、
「8月15日というのは、何の拘束力も、何もない日」
ということになる。
諸外国に、
「無条件降伏を受け入れる」
ということは、すでにそれ以前に報告されていたし、何よりも、
「天皇の玉音放送で戦争が終わったわけではない」
ということだ。
だから、本来であれば、
「戦艦ミズーリの甲板上で、停戦の調印が行われた、9月2日が、本来であれば、日本がいうところの、終戦記念日だ」
といってもいいだろう。
しかも、もっといえば、
「終戦記念日」
というものを、最初に、日本国の、休祭日を決める時、
「建国記念の日」
ということでの、候補に、何と、
「8月15日」
というのがあったということを聞いた時、開いた口が塞がらなかった。
何といっても、この日は日本にとっては敗戦の日であり、立ち直る日ではない。まだ、
「独立を果たした日」
というものを、
「建国記念の日」
ということであれば分かるのに、なぜ、わざわざ、終戦記念日とした日に当てたのか?
ということであった。
しかし、これも分からなくもない。
「武装解除」
「軍国主義の解体」
というものが始まり、
「民主化に踏み出した」
という記念日だということであれば、
「なるほど」
という理屈もあるというものだ。
しかし、実際には、そんな生易しいものではなく。まだまだ、再軍備であったり、軍国主義を続けようという勢力もあり、他の主義からの介入などもあり、とにかく、
作品名:いたちごっこのフレーム問題 作家名:森本晃次