いたちごっこのフレーム問題
だったのだ。
だから、
「大東亜戦争」
という言葉を否定するということは、
「自分たちが今まで植民地としてアジアを搾取してきたことが、戦争の原因だ」
ということを自らで宣伝しているものだと言えないだろうか。
そもそもが、この裁判自体が、
「勝者による裁判」
ということで、公平性は最初からなく、
「力の理論」
というもので、押さえつけるという考えがありありだったのだ。
もっとも、そこかで、誰かが
「収拾をつけなければいけない」
ということは当たり前のことなのだろうが、そのために、
「勝者による裁判」
というのがまかり通るとうのが、民主主義だということであれば、それこそ、
「民主主義の限界」
どころか、
「崩壊だった」
といってもいいだろう。
エネルギーと着想
そんな、
「自由」
と
「平等」
というものを考えた時、社会主義というものの裏返しが、
「独裁政治」
ということであった。
ナチス下においての、ドイツ民族は、それを分かっていたことだろう。
何といっても、
「まわりの国から、搾取される形になり。さらには、領土は奪われる」
工場施設も、
「賠償金が払えないのであれば」
ということで、
「他国から侵略され、強制的に、接収される」
という状態になるのだから、
「強力な指導者でなければ、諸外国に立ち向かえない」
ということなのである。
実際に、当時の政府では、完全に、ワイマール体制は崩壊していて、
「どこがやっても、同じ」
という状態だったことから、その宣伝能力に長けていたナチスの台頭に、ドイツ民族は、待ちわびていたといってもいいだろう。
そんな状態なのだから、
「独裁者が現れるのも当たり前」
というもおので、
ヒトラーが出てきたのは、
「戦後処理の誤りから起こった」
といってもいいだろう。
さらに、ソ連では、
「社会主義」
という国家が生まれた。
社会主義国家というのは、
「民主主義」
の限界を正すということで、
「自由を抑えて、平等を取る」
というものである。
だから、こちらも、完全な独裁である。
ただ、独裁といっても、ヒトラーほどの信頼があるわけではないので、どうしても、国家元首は、疑心暗鬼に陥る。
そうなると、行うことは、
「自分にとって危ないという人間を葬り去ること」
という妄想に取りつかれることで、行うのが、
「粛清」
というものだ。
「社会主義においては、粛清は切っても切り離せない」
という意味で、こちらは、民族を守るわけではなく、あくまでも、
「かわいいのは、自分だけだ」
ということである。
そうなると、
「独裁国家」
ではあるが、そこは、政府の中に、それらの組織をたくさん作り、社会主義国家を世界に広げるという使命を、国家元首が考えてしまうのだろう。
だから、スパイを送り込んでの諜報活動であったり、民主主義国家の動向を探るということに集中することで、国家全体が、
「被害妄想的になる」
といってもいいだろう。
そういう意味で、
「社会主義」
であったり、
「ファシズム」
というのは、似ているところがあるが、実はそれぞれに対立している。
そういう意味で、
「民主主義」
から見ても、この二つは、それぞれに、
「敵対している」
といってもいいだろう、
実際にそれぞれの体制に対して、見方は難しいところであるが、
「自分たちとは違う体制というものは、それぞれに、どこか似たところがある」
と感じているということで、
「共通の敵ではなく、共通する敵」
ということになるだろう。
というのも、
「普通であれば、三つ巴のような形になっているとすると、一つをやっつけるということで、もう一つと手を結ぶ」
ということもありえる。
ということも考えられ、それが、
「共通の敵」
という考え方だ。
場合によっては、
「敵対する相手を手を結んで、今は、実害のひどい方の相手を排除する」
ということが、世の中では普通にある。
例えば、
「中華民国において、共産党と国民党が争っているが、お互いの共通の敵ということで、反日というスローガンも下、中共合作ということが行われたりした」
最終的には、
「アメリカが手を引いたことで、中国共産党が勝ったことで、中華人民共和国が成立したのだ」
ということである。
共産党への対策として、
「防共協定」
というものが、結ばれるケースが多かった。
日本でも、
「日独伊防共協定」
というのがあったではないか。
もっとも、これは、
「立憲君主国」
である日本と、
「ファシズム」
である、ドイツ、イタリアと、
「共産主義からの防衛」
ということでの同盟だったのだ。
そういう意味で、
「共通の敵」
として、共産主義を見ていたのは間違いではないが、ナチスというのが、
「自国の利益のためには、敵対している共産主義とも手を結ぶ」
ということでの、
「日ソ不可侵条約」
というものを、日本を無視して結んだことで、本来なら、ドイツとの関係を断てば、少しは、戦争を回避できたかも知れないが、それをしなかったのは、どうしても、
「満州国建国」
において、
「国際連盟を脱退する」
という、世界的な孤立を招いたことが、大きな原因となっているのだ。
それを思うと、日本という国は、
「優柔不断で、国際情勢にお世辞にもたけていたとは言えないだろう」
ということであった。
そんな、
「三つ巴」
というものと、似ている言葉で、
「三すくみ」
というものがある。
この二つは、よく似ているようだが、実際にはまったく違っているものであった。
というのは、まず、
「三つ巴」
というのは、
「三つの力が完全に均衡していて、それぞれが、雌雄を決するには、巴戦というものを行って決める」
というやり方である。
「巴戦というのは、それぞれに、一度対戦する形で、先に2勝した方が勝ちだ」
というものだ。
三人いて、一人が全勝するということは、残りの二人は、
「絶対に、1敗はしているということになるので、その時点で、勝ちが決定する」
というものだ。
しかし、これが、
「1勝1敗」
というのが、2組できると、もう一人も、
「1勝1敗」
となるのが確定しているので、もう一度、頭からやり直しということになる、
「では、先に全敗ができた場合には、あとの二人は、どちらかが全勝となるわけなので、その時点で、二人がまだ雌雄を決していなければ、戦うだけで、二人の間で決定していれば、その勝者が、最終的な勝者」
ということになるというものだ。
これが、いわゆる、
「巴戦」
と呼ばれるもので、
「決着をつける」
ということが前提であっても、巴戦によって、決着をつけることができるというものである。
しかし、これが、
「三すくみ」
ということになると、まったく話が違ってくる。
三すくみというものは、
「じゃんけん」
であったり、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
というような関係をいう。
つまりは、
作品名:いたちごっこのフレーム問題 作家名:森本晃次