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いたちごっこのフレーム問題

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 それが、今の時代においての社会というものであり、
「これが、民主主義というもので、自由、平等、博愛などという言葉が恥ずかしくて言えないようなやつの多さに、閉口してしまう」
 といってもいいだろう。
 完がええみれば、
「自由」
 というものが優先されると、
「平等」
 ということではなくなる。
 というのが、分かってきたことで、
「民主主義の限界」
 といわれるようになった。
 ということで、出てきたのが、
「社会主義」
 であった。
 その発展形が、
「共産主義」
 なのであるが、
 そもそも考えてみれば、民巣h主義委の基本的な考え方として、
「人間は、生まれながらにして平等だ」
 といわれるが、果たしてそうなのだろうか?
 というのも、
「生まれながらにして平等だ」
 というのであれば、生まれる人は、皆平等な世界に生まれてなければいけないだろう。
 貧富の差などなく、社会の仕組みとして、
「誰に責任があるか?」
 あるいは、
「責任を負わせるか?」
 ということで、階級であったり、役職というものが決まってくるわけで、当然、
「責任の重い」
 といわれる人が、高い給料をもらうというのは、当たり前のことである。
 逆にそうでなければ、その時点で、
「不平等だ」
 ということになる。
 だから、社会の中で、
「片方が平等であっても、片方では必ず不平等が起こる」
 というのが、
「民主主義の限界」
 と呼ばれるものだといってもいいだろう。
 だから、
「民主主義において、平等というのを口にするのは、何に対しての平等なのか?」
 ということをハッキリさせないと、
「漠然としたもので終わってしまう」
 ということになるに違いない。
 そんな中で生まれた
「社会主義」
 という考え方は、
「民主主義が、自由を追求することで、平等を犠牲にしているのだから、社会主義というのは、逆に、自由を犠牲にして、平等を達成しよう」
 というものである。
 今の社会体制であれば、
「自由と平等は、それぞれに相対するもので、それぞれに、共存できるものではない」
 ということは、
「今までの長い歴史」
 というものが、証明しているということになる。
 だから、問題は、
「自由競争によって、平等の精神がそがれるのがいいか?」
 あるいは、
「平等を求めることで、自由競争がそがれるのがいいか?」
 ということであり、
「社会主義」
 あるいは、
「共産主義」
 という考え方が出てきた時、その考え方を、
「素晴らしいものだ」
 ということで、絶賛したジャーナリストも少なくなったことだろう。
 しかし、共産主義というのは、大きな問題がある。
 これは、
「ファシズム」
 というものにも共通することであるが、そこに君臨するものとして、
「一党独裁」
 という、
「強力な政府」
 ということである。
 ナチスでもそうだったではないか。
 第一次世界大戦の敗戦国となったことで、戦勝国から、莫大な賠償金を要求され、領土もかなり取られて、戦勝国で分け与えられる。
 そして、ドイツという国は、貧困にあえぎ、惨めな暮らしを強いられているところに、
強大で、一党独裁を目指し、
「民俗の優位性」
 であったり、
「民俗復興」
 を解くことで、
「この人についていこう」
 ということになったとしても、それは無理もないことであったといっても過言ではないだろう。
 そんな状態で、どんどん、国土が増えていくのだから、それまで、虐げられたドイツ国民は、自分たちを苦しめた他の国に対しての、
「報復」
 ということで、誰が、ナチスに反対する人など出てくるわけはない。
 もし反対などしようものなら、国家から虐げられる前に、近所から村八分にされる状態だっただろう。
 もっとも、ナチスはそんなことも分かっていたので、
「国家秘密警察」
 などというものを最初から作って、情報統制から、国民の心理まで強制的に管理するということになったのだろう。
 だが、そんなナチスドイツのような、
「ファシズム」
 というのは、
「ドイツ民族」
 というものだけの発展を考えた。
 そもそも、大戦後に、まわりの国から迫害される形になったのだから、ドイツ国民全員が、
「ナチスと同じ考え」
 だったということが後押しして、ナチスは、完全な独裁国家となったのだ。
 そこで行った。
「ホロコースト」
 ユダヤ人迫害というものであるが、
「やったことは、人道に背く」
 ということになるので、
「やり方が間違っていた」
 ということになるのだろうが、
「自分たちの民族を守るため」
 ということで、
「他の民族を排除する」
 というのは、普通にありではないだろうか?
 当然、やり方によるという意味でである。
 実際に、国によっては、
「他民族が流入してきて。国家体制がめちゃくちゃになった」
 というところも少なくはない。
 何といっても、
「植民地政策」
 というのが、実際には、そんなものではなかったのか?
 ということになれば、アジア諸国が、
「鎖国をしていた」
 というのも無理もないことだった。
 そういえば、大東亜戦争の後にあった、
「極東国際軍事裁判」
 というものにおいて、日本人の被告が、被告としての弁論に入った時。
「ペリーを連れてこい」
 といったという話がある。
 これは、そもそも、
「日本はそれまで鎖国をしていて、別に鎖国をしたままでもよかったものを、アメリカが、大砲で攻撃するなどという脅しをかけるものだから、仕方なく鎖国を解いたのだ」
 ということで、大東亜戦争の原因は、
「黒船来航にさかのぼる」
 ということを言った人がいたというが、まさにその通りであろう。
 戦争犯罪人を裁くということで、
「では、どの時代からさかのぼって議論する必要がある?」
 ということが、実は大きな問題といえるだろう。
 そもそも、この裁判は、
「勝者が敗者を裁く」
 ということで、最初から、平等ではない裁判なのだ。
 要するに、
「戦争犯罪人」
 というものを裁いておかないと、また次の戦争を招きかねないということは分からなくもないが、それを裁くのが、
「勝者だ」
 ということは、
「実に本末転倒だ」
 といってもいいだろう。
 というのは、
「日米戦というものを、大東亜戦争という言葉を使ってはいけない」
 ということからして、
「歴史の隠蔽」
 といえるのではないだろうか?
 大東亜戦争というのは、
「日米戦」
 というものが始まる少し前の閣議決定で、決まったもので、
「日本側には日本側の、大義名分があった」
 のである。
 それを否定するということは、
「戦勝国側に、それなりの、後ろめたいことがある」
 という証拠であることを、自らで公表しているようなものだった。
 その、
「大義名分」
 というのは、
「大東亜共栄圏」
 というものであった。
 欧米列強が、昔に行った、
「植民地」
 という形での、アジア諸国を占領しているという事実が、元々あり、
「日本が、アジアの国を解放し、その後に、日本を中心として、アジアの新秩序を打ち立てる」
 というのが、戦争のスローガンであり、
「大義名分」