都合のいい「一周の夢」
というのは、起きて感じる、
「怖さ」
というものと同じものなのであろうか?
夢を忘れていないということが、恐怖というものに繋がっているのだとすれば、
「その怖さがどこからくるものなのか?」
と考えた時、最近になって感じたことがあるのだった。
というのは、二つあり、一つは。
「自分と同じ人間を見た」
と感じる時であった。
というのは、一種の
「ドッペルゲンガー」
といってもいいのだろうが、
「自分から無意識に見る」
というものなのか、それとも、
「潜在意識のなせる業」
ともいうべき、
「夢特有の能力にゆだねられたものなのか?」
とにかく、夢を見るというその先には、潜在意識というものがあるということのようで、読んで字のごとしともいうべき、
「潜んでいる意識」
である。
普段から気にしていないようでも、その存在を意識してしまい、怖さから、見てしまったことを本当は覚えてもいたくないのに、目が覚めると、嫌でも思い出さされる。
これは、考え方によっては、
「思い出したくもない怖い夢を思い出さなければいけない」
ということを、勝手に思い出すというのは、却って恐ろしい。
ということで、本人に、
「意識させよう」
と考えるからであろうが、
どちらにしても、意識しないということもできず、記憶としても消し去ることができないのであれば、
「潜在意識が見せるものだ」
ということで、
「一番の言い訳として成り立つ」
と考えられる、
「夢のせい」
ということにしてしまえばいいだろう。
ということになるのだった。
そんなことを考えていると、
「夢を忘れないのか、覚えさせられているのか」
ということを考えると、気持ち悪いものだといえるだろう。
怖い夢ばかりを見ていると思っていたが、実際には、それ以外の夢も見ている。
そして、ほぼ毎日見ている夢を、
「見ていないわけではなく、見た内容を忘れているわけではなく、見たということすら覚えていないということだ」
と考えられる。
だとすると、
「どうして覚えていないのだろう?」
楽しい夢に限ってなかなか覚えていないというのは、
「何かがあるのではないだろうか?」
と考える。
これも、実に都合のいいことだといえるだろう。
そして、同じ夢でも、怖い夢は何度も見るが、もう一つ、よく見る夢として意識しているのは、
「何度も見る夢」
というものであった。
これは、一種の、
「怖い夢」
ということでもある。
夢を見ていて、恐怖を感じる夢であるが、その恐怖というのは、
「その夢の通りになると、自分に不幸が訪れる」
というような夢で、たとえば、学生時代などであれば、
「試験があることを忘れていて、試験を受けれずに、留年したり、卒業ができない」
などというものであったり、社会人であれば、
「会社が潰れてしまう」
という、自分に関係のないところでの、問題だったりして、路頭に迷うなどという、
「実際には、そんなことはない状態なのに」
という時に、ふと見てしまう夢であった。
目が覚めて、気が付いた時、
「ああ、夢だったんだ」
と思って、ホッとした気分になる、
しかし、そんなホッとした気分を味わっているはずなのに、
「目覚めは最悪だ」
と思うのだ。
それは、実際にはそんなことがないのに、
「どうして、こんなに気持ち悪い思いをしなければいけないのか?」
ということからくるものであった。
それを考えると、
「夢見の悪さと、夢の内容とは、必ずしも比例するとは限らない」
といえるだろう。
そして、この夢の内容というのも、
「見ている夢が、目が覚めるにしたがって、感じさせる思いが次第に変わってくるということを含めてのことである」
といえるのであろう。
「何度も同じ夢を見る」
という感情であるが、
同じ夢というのは、もちろん、
「目が覚めた時に、前にも同じ夢を見たことがある」
と感じるからであるが、夢を見ている時にも、
「前にもどこかで?」
と感じたことがあるような気がする。
それこそ、デジャブというものであり、しかも、それが、
「夢の中で起こる」
というのは、どういうことであろうか。
しかも、その夢は、見ている時に、
「夢を見ている」
と感じるのだ。
今までの経験で、
「これは夢なんだ」
と感じた時というのは、
「その瞬間に、目が覚めてしまう」
と思う時であった。
夢というものを、毎回見ていると感じると、
「今回見る夢が、今までにも見た夢だ」
と感じるのも無理もないだろう。
ただ、それ以上に、
「今見ている夢に記憶がある」
という場合に、それが、
「前に見た夢だったのか?」
ということであるのか、それとも、
「現実で感じたり、考えたりしたことを、夢に見たのだろうか?」
とも考えられる。
ただ、その時は、現実でも、
「夢で見たような」
と思うことがあり、
「実際にどっちが先だったのか?」
ということを感じていると、
「夢を見るということと、現実で考え事をしている時というのは、その感情が渦巻いていることが多いのではないだろうか?」
と考えるのだ。
つまり、
「普段から、起きている時、いつも、何かを考えている証拠だ」
と思うのだった。
何を考えているのか、時々、我に返って。
「今何かを合考えていたな」
と、ふと感じることで、考えていたのだということを意識するのだが、その瞬間に、実際に何を考えていたのか、忘れてしまうのだった。
それを思うと、
「夢、まぼろし」
とは、よく言ったものだなと感じるのだった。
「目が覚めている間も絶えず何かを考えている」
という感覚は、今に始まったことではない。
昔からその感覚は実際にあり、昔は嫌いだった勉強が、小学生の途中くらいで、好きになってきたのだが、その頃になって、
「絶えず何かを考えているんだ」
と思うようになったのだ。
小学生の途中までというと、本当に勉強が嫌いだった。
というのは、
「理屈が分からない」
というところから始まっていたのだ。
というのは、算数の、
「1+1=2」
という感覚が分からなかったのだ。
「そうしてそうなるのか?」
ということであるが、先生に聞いても、
「そうなっているんだから、そういうものだと考えるしかない」
と言われた。
「ああ、先生も知らないんだ」
と思うと、先生というものを信じられないと思った。
それは、先生が知らないから、信じられないと思ったわけではない。
「知らない、あるいは分からないことを、恫喝気味にイライラしながら、相手を押さえつけるかのように言い放つ」
ということが嫌だったのだ。
「先生が分かっているいないに関係なく、何をそんなにイライラしながら、生徒に押し付けようとするんだ?」
ということだ。
そのことは、小学4年生くらいになって、何とか分かったような気がした。
というのも、
「理屈が分からないまでも、いつまでも、ごねていてもしょうがない」
と感じたからであった。
「確かに、その理屈を、小学4年生の段階で分かるはずがない」
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次