都合のいい「一周の夢」
ただ、それは、辻褄が合っているというのは、自分にだけいえることであり、まわりは、相手が確実に、5分先を歩んでいるということに気づくことになるのではないだろうか?」
それを感じた時、
「旅立ったその場所に戻ってきた時は、自分だけが辻褄が合っていると思っているが、まわりは、先に進んだ本人に対して、理由は分からないが、何かおかしいということを感じるに違いない」
と思うだろう。
しかし、逆に。
「未来で過ごした分の時間を差し引いて、つまり、最初に未来に飛び立って、着地した時間差を覚えていて、過去に戻る時、その時間差だけ戻るという風にすれば、未来での時間、つまりは、自分の寿命というものの終わりを狂わさないという意味でいけば、果たして、どのような感覚になるのだろう?」
と考えると、
「自分の中で辻褄が合っていると思うのだが、少なくとも、現代において、過ごすはずの人生が、抜け落ちている」
ということになる。
だから、身体や時間ということの辻褄は合っているのかも知れないが、精神的な空洞が存在していることに間違いはなく、身体が分かっているだろうから、精神的にも何かおかしいと思うのだが、その理屈が分からない。
たぶん、
「記憶が抜け落ちている」
と感じるのではないだろうか?
ただ、それは、普段からあり得ることで、
「いつも記憶があいまいに感じられる時がある」
と思うのは、偶然というわけではなく、時間というものへの歪みを、自分が経験することで、理屈に合わせようとしているのではないか?
と感じると、
「未来で少しの間、時間を使ってしまった」
ということで、過去に戻る時、
「同じところに戻ってはいけない」
と感じるのか、
それとも、記憶に矛盾が生じるはずなので、
「同じ場所に戻らなければいけない」
ということになるのか?
それが問題なのであった。
そもそもの、タイムパラドックスというものを考えてみることにしよう。
タイムマシンを作って過去に行き、そこから戻ってくる場所というのは、まず現在に戻るということになるだろう。
未来に行った時のような、
「未来で過ごした時間」
というような発想が出てこないだろう。
理屈でいえば、
「過去に戻ろうが未来に戻ろうが、自分がその世界で過ごす時間ということには変わりはないので、寿命が絶対的に決まっているのだとすれば、寿命を中心に考えると、絶対に、旅立った時間よりも、だいぶ先に戻る必要がある」
と考えるようになるだろう。
そこで考えたこととして、
「じゃあ、例えば別の時代で、過ごした荷が1か月だったとしよう。そして戻ってきた場所を、飛び立ってから、一か月後だったとした場合。もし、自分の寿命が、本当は、判隙も無かったとすれば、どうなるのだろう?」
という考え方だ、
一つだけいえることとして、
「未来に行って、未来の自分を探しても、どこにもいるはずがない」
ということである。
もちろん、それは、
「未来に行って、過去に戻る」
という発想であるから、少なくとも、最初にいった未来というのは、
「半月以上先でなければいけない」
ということになる。
だから、そこで一か月いて、そこから一か月前に戻ってきて、それが、未来でなければいけないということであれば、未来に自分がいないということは当たり前のことであった。
さらに、もう一つ言えることは、
「自分が旅立つ先というのは、これから行く場所で、その時間差よりも長いということは許されない」
といえるのではないだろうか?
それは、飛び立った自分が本当は戻るはずは過去なのに、理屈としては、過去になるはずのものが、未来になってしまったということで、まるで、
「タイムパラドックス」
というものを描くことになる。
そんなことを考えると、
「未来へのタイムトラベル」
というのは、過去にいくよりも、かなり制約が厳しい」
といえるのではないだろうか?
過去にいって、タイムパラドックスを起こしてしまえば、取り返しがつかない」
と言われるが、実際には、
「未来に行く」
という方が、
「タイムパラドックス」
というものも存在していて。さらに制約があると考えると、本当に恐ろしいと考えても不思議はないだろう。
多重の夢
「ジキル博士とハイド氏」
の夢を見たことがあった。
その夢は、自分が感じた恐怖のようなものであったは、その夢のことをよく覚えているのは、
「怖い夢」
だったからである。
「怖い夢ほど、ハッキリ覚えている」
ということを感じていたが、それは、
「夢というものを簡単に忘れる」
ということから感じたことであった。
というのも、夢というものは、
「見る時」
というのも、
「覚えていない時」
というのは、それぞれに、
「意識できていない時」
いや、
「意識できていない時」
といってもいいだろう。
というのも、夢を見る時、
「楽しい夢は決して覚えていないが、怖い夢はなぜか、覚えているのだ」
ということである。
というのは、
「楽しい夢を見たというのには、記憶がないくせに、見たという意識はある」
ということのようなのだ。
ということは、
「夢というのは、見た見ないということであるならば、ほとんど、毎日見ているのではないか?」
といってもいい気がする。なぜなら、いつも熟睡している時など、ゆっくりと眠れたくせに、
「なぜか身体がだるい」
ということなのだ。
もちろん、まったく夢を見ていないという時もあるだろう。
そういう時は、本津に夢を見ていないというのを、身体の疲れが証明してくれるようで、身体のだるさのわりには、目覚めがやたらよくて、すぐに目が覚めてしまい、
「睡魔というものがどういうものだったのか、分からないくらいになった時だ」
つまりは、眠っていたという証拠である。夢見というものが、目が覚めた瞬間に消えてしまい。
「もう少し寝て居たい」
という感覚が失せてしまっている。
といってもいいだろう。
夢というものを、意識しないでいると、
「夢を見るということがどういうことなのか?」
ということが、おぼろげに分かってくるのだった。
「夢を見るということは、眠っているということであり。眠っているということは、夢を見るということだ」
ということで、ほぼ、夢を見ることが、
「睡眠の代名詞」
ということになってくるのであった。
最近、夢を見ることで、眠っている意識を感じるようになり、それが、夢を見たという、
「記憶につながる」
と感じるようになった。
つまりは、
「夢というのは、ほぼ毎日見ている」
といってもいいだろう。
そして、その中で、
「覚えている夢」
と、
「覚えていない夢」
つまりは、
「忘れてしまった夢」
というものがあるということである。
夢というのは、
「記憶」
ということであり、
「夢を見る」
というのは、
「意識する」
ということになるのだ。
夢を見たことが、意識から、記憶に変わるためには、
「怖い」
という思いが必要になってくる。ここでいう、
「怖い」
作品名:都合のいい「一周の夢」 作家名:森本晃次